堺県では、明治五年(一八七二)五月に「区長会議規則」(『堺県法令集』一)を制定し、毎月三度、六の日に区長・副区長を召集して定例会を開き、農商の勧業、生産会社の方法、各地の景況など、地方人民繁栄のことを評議し、県令・参事に報告させることにしていたが、九年四月一七日に奈良県を合併すると、七月一三日、「県会議事仮規則」(『堺県法令集』二)を制定して県会を開設した。正副区長を議員とし、定員は河内国一三人、和泉国一二人、大和国二五人であった。定例議会は年二回開催し、必要に応じて臨時議会を開催することができた。しかし、この県会は、独自の規定によって開かれたもので、政府が一一年に公布した「府県会規則」によるものではなかった。「府県会規則」による府県会は、公選議員によって構成され、郡区を選挙区として、それぞれ五人以下を選出することになっていた。選挙権は、満二〇歳以上の男子でその郡区内に本籍を有し、地租五円以上を納める者に、被選挙権は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を有し、満三年以上居住して地租一〇円以上を納める者に与えられた。府県会は、地方税で支弁する経費の予算とその徴収法を議定するが、議案の提出権は府知事・県令にあり、議決は、府知事・県令の認可を得て施行され、府知事・県令が認可すべきでないと判断した時は、内務卿の指揮を仰ぐことになっていた。
堺県では、一二年四月一九日に府県会規則による選挙・被選挙人の取調べ手続きを布達し、一三年四月二一日に議員定数を各郡役所管内四人と定め、五月一五日に選挙を実施した。第一回県会は、堺の東本願寺別院で開かれ、地方税支弁経費の予算とその徴収法のほか、「堺県会議事細則」「堺県会傍聴人取扱規則」「堺県会傍聴人心得」などが議決された(「堺県会議日誌」『堺研究』一二)。明治一四年二月に堺県が廃県されると県会議員も解任され、同年三月、旧堺県管内の大阪府会議員選挙が行われた。郡を選挙区とし、戸数一万戸・反別五〇〇〇町歩未満の郡は定員一人、それ以上の郡は二人と仮定し、総数四〇人を選出した。石川・錦部両郡の定員は、各一人で、石川郡は山中田村の杉山安治が当選したが、第四聯合の事件が影響したのか一か月で辞任し、北大伴村の芝野七郎と交代した。錦部郡は錦郡村の田中八三郎が当選したが、これも三か月で辞任し、小山田村(現河内長野市)の西端喜之治が補欠当選した(『大阪府会史』)。
明治五年、堺県で区長会議が開かれると、六年、河内国第二十三区(八上郡)では、正副戸長と学校教師による会議を開くため規則を設け、県に許可を申請しようとした。区分改正のため計画を中止せざるを得なかったが、大小区制が実施されると、河内国第一大区三小区(八上郡・丹南郡計一六か村)の区会(大会議)を開設するため、七年一〇月、新聞に報道される各地の府県会の規則を参照して「会議規則」(富田林市所蔵文書)を起草している。区会の目的は、農工商の業の巧拙、器械の可否を研究し、区内の経済力を高めることにあり、具体的には堤防・水利・道路・橋梁・勧業・学校・教導・病院・番人・会社等のことを検討することになっていた。この会議が成功すれば、組合村(番組)の聯合会議、さらに村会を開設して開明の実効を挙げようという計画であった。この計画がどこまで具体的に進められたかは不明であり、本市域で類似の動きがあったという史料も見当たらないが、南河内に自主的に民会を開設しようとする動きがあったことは注目に値する。
政府は、明治一一年七月二二日、太政官無号達をもって区町村会の開設を認め(『法令全書』)、その基準を示し、一三年四月八日には、太政官布告第一八号をもって「区町村会法」(『大阪府全志』一)を公布した。これによれば、区町村会は、区町村内の公共に関する事件と、その経費の支出・徴収方法を議定するもので、区町村会の規則は、府知事・県令の認可を必要とした。また、数区町村が連合して聯合区町村会を開設することや、水利土功のために、関係ある人民、もしくは町村の集会を設けることもできた。古市郡役所部内第四聯合村々は、「本年太政官第拾八号布告ニ依リ今般村会議ヲ設ケント欲ス、依テ左之法則ヲ製(制)定ス」として四章四〇条からなる「村会議則案」(岸之本谷口家文書)を制定している。第三聯合でも、一四年一月に四章二七条の「村会議則案」(近代Ⅲの一)を決議したようである。両者の内容は類似しており、いずれも第一章総則・第二章選挙・第三章議則・第四章開閉となっている。村会で議定する事項は、第三聯合では「壱村之公共ニ関スル事業及ヒ入費之取立、且ツ仕(支)払之方法」と簡潔に記されているが、第四聯合は、款(かん)を設けて、村費をもって支弁すべき事業の起廃・伸縮、村の経費の予算および賦課法、共有財産の増減・貸付法、共同名義による土地・家屋・金穀などの借入、戸数割税の割当と具体的に示している。
議員定数は、第三聯合では、戸数二〇戸までは五人、五〇戸までは七人、一〇〇戸までは一〇人、それ以上は一五戸ごとに一人の増加となっているのに対し、第四聯合では一村一〇〇戸二〇人とし、一〇〇戸を超えれば五〇戸ごとに二人を増員する。戸数一〇〇戸の場合は、第三聯合一〇人、第四聯合二〇人で、第四聯合が多くなっているが、五〇〇戸になると、第三聯合三六・六人、第四聯合三六人と伯仲し、五五〇戸では四〇人、三八人と逆転する。明治二四年の統計書(第二章第一節表23)によれば、第三聯合・第四聯合で戸数が一〇〇戸を超えるのは甲田・廿山・錦郡・板持・甘南備・佐備の六か村にすぎず、第三聯合の方が戸数に対して議員定数が多かったことになる。特に第三聯合には五〇戸未満の村が七か村もあり、一〇〇戸未満の定数を細かく規定する必要があった。議員の任期は二年で、第三聯合の規程では無給で会日には日当一二銭が支給される。第四聯合では給料の規程がなく、日当は支給されず、村会の議決による弁当料が支給される。議員の選挙権は、第三聯合では不動産の有無にかかわらず、村内に本籍を定める満一七歳以上の男子戸主すべてに与えられた。それに対し、第四聯合では村内に本籍を定める満二〇歳以上の男子戸主で土地を所有する者に限られていた。被選挙権は、いずれも満二〇歳以上の男子戸主で村内に満三か年以上居住し、土地を所持している者に与えられたが、第三聯合では、土地所有者が議員の定数に満たない時は家屋・動産を有する者を選挙することが認められた。村会は通常会と臨時会があるが、第三聯合では、通常会・臨時会にかかわらず開会前に小会議を開き議案について十分に質問する機会が与えられた。
第二聯合の「村会議則案」は不明であるが、富田林村と喜志村の村会規則および新堂村の一七年改正村会規則が残されている。この三か村はいずれも大村で、二四年の戸数が富田林村五一七戸、新堂村四五〇戸、喜志村三四二戸であった。喜志村の規則(富田林市所蔵文書)は、年月の記載はないが、第一条に「村会ハ本年第十八号公布ニ拠リ村民ノ便否人情ヲ斟酌(しんしやく)シ会則ヲ設ケ」とあり、文末に「右之通不日村会ヲ取設ケ度候間、御差閊(さしつかえ)無之候得者御許容被成下度」と記されていて、「書面之趣き認可候事 堺県」と朱書されているので、一三年に起草し堺県の認可を得たものであることがわかる。この規則は、他村の村会規則に比して、かなり特異なものである。章を設けず、条文も二〇条と比較的少なく、しかも第一条に「本年第十八号公布ニ拠リ」云々という、前文にでも記すような制定事情が記されている。第二条は「議事ニ係ル議員左之如シ」として議長・幹事長・組合幹事・議員・書記を列挙している。第三条は議長・幹事長・組合幹事の選出方法で、議長・幹事長は「各議員ヲシテ投票セシメ」、組合幹事は「議員中互ニ投票公撰」することになっているが、被選挙権の規程はない。幹事長は、議長欠席の時に任務を代行することになっており、副議長に相当するものであるが、組合幹事の職務は規程がない。書記は一人で、「議員ヨリ之ヲ撰ム」と規定されているが、他村では「議員之外ニシテ、議長ヨリ見込ヲ以テ雇入」(第三聯合)、「議長ヨリ之ヲ選ヒ」(第四聯合)、「議長之レヲ撰定シ」(富田林仲村家文書)などとなっていて、議長が選任するのが普通である。議員定数は二五人で、任期は二年、無給で、出席すれば日当が支給される。議員の選挙権は、「村内不動産所有ノ者」に与えられるが、年齢・性別の規程はなく、被選挙権の規程も欠如している。会議は、通常会と臨時会に分れるが、通常会は年三度、三月・七月・一一月に開かれ、定足数は半数以上となっているが、臨時会には適用されなかった。
新堂村の「村会規則」(新堂平井家文書)は五章四四条からなり、一七年三月六日、「右之通村会決議之上修正仕候ニ付、御差閊之廉(かど)無之候ハヽ御認可被成下度、奉伺上候也」と出願し、三月二四日に裁可されたものである。章の数が増えたのは、「第五章議事細則」を設けたからで、全体の内容は、従来のものと大差はない。議員定数は四〇人で、富田林村と同数であるが、任期が満三年と長くなっている。議員の被選挙権は、村内に本籍を定める満二〇歳以上の男子戸主で、不動産を所有するものに限られ、選挙権は、村内に本籍を定める戸主に与えられることになっており、年齢・財産の規程はない。通常会は、年二回、一月と七月に開かれ、定足数は過半数であるが、臨時会は三分の一でも成立することになっていた。