富田林村では、明治一三年(一八八〇)一一月、「本年四月太政官第十八号布告第二条ニ拠リ、這回(しやかい)村会規則ヲ設クル左之如シ」として、四章二五条からなる村会規則を定め、総代杉田善作から堺県に認可を願い出ている。その「内扣(うちひかえ)」が仲村家(富田林)に残されているが、書込みがあり、どちらが提出された「規則」であるのか断定し難い。内容は第三聯合の「村会議則案」に似ているが、会議が大会・小会・臨時会の三つに区分されている。「通常会・臨時会二分区分ス」という書込みがあるが、後述する一五年の修正規則でも本文のままとなっている。大会は、通常会のことで、小会は第三聯合の小会議と同様のものであったと思われる。会議は、毎年一月・五月・九月の三度、日数は三日以内となっているが、「一月・七月ノ二度トス」「日数者五日以内」とする書込みがある。議員定数は「戸数廿戸ニ壱員宛、則(すなわち)三拾名ヲ定員」とし、戸長は員外議員になっていた。議員の選挙権・被選挙権は、どちらも満二〇歳以上の男子戸主で土地家屋を所有するものとなっていた。これには「男嗣子ニ而代理スルヲ得」という書込みがあり、一五年修正規則(近代Ⅲの二「村会規則」)では、「嗣子ニシテ満二十年以上ノ者ナレハ、父ニ代リ出席スルヲ得」という但書が付いている。この規則が、そのまま認可されたかどうかは不明であるが、富田林村では、一五年二月二〇日に、「右之通、本年一月廿九日通常会ニ於テ議決致候条、御差支(さしつかえ)ノ廉無之候得者、御認可被成下度、此段懇願仕候也」と大阪府知事に願い出て裁可されている。
改正の眼目の一つは、議員定数が三〇人から四〇人に増加したことである。定数増を必要とした理由は明らかでないが、できるだけ多くの村民の意見を反映させることで、村内の対立を避けようとしたものと思われる、議員の親睦を謳った第六条が追加されたのもそのためであろう。反面、議員の出席率はあまり良くなかったようである。そのため、欠席者の処分を強化するとともに、定足数を二分の一から三分の一に引き下げたり、嫡子の代理出席を認めなければならなかった。ところで、明治一五年一月の富田林村会通常会には、第七条と第一五条の改正のみが議案として提出されており(富田林杉田家文書「明治十五年一月通常会議按」)、それ以外の追加や改正がいつ行われたかは明らかでない。