明治六年(一八七三)七月二八日、政府は「地租改正法」を公布した。これは、「地租改正法」公布の上諭(天皇の裁可)、太政官布告第一七二号および「別紙」の「地租改正条例」、「地租改正施行規則」、「別冊」の「地方官心得書」をまとめて冊子とし、「地租改正法」と記された表紙が付いており、上諭はすべて朱書されていた。このような公布の形式は異例であり、地租改正に対する政府の姿勢がうかがえる。太政官布告は、「今般地租改正ニ付、旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆(しつかい)相廃シ、更ニ地券調査相済次第、土地ノ代価ニ随(したが)ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト可相定旨被仰出候」(『法令全書』)と基本方針を示し、「地租改正条例」「地租改正施行規則」は、具体的な手続きを定め、「地方官心得書」は、改正事業を担当する地方官に対して、その具体的な方法を示すものであった。地租改正は、近世以来の貢租法を抜本的に改めるもので、その要点は、次の四点であった。
(1)租税の算定を石盛ではなく、地価を基準とする。
(2)税率は、豊凶にかかわりなく地価の一〇〇分の三とする。
(3)租税はすべて金納とする。
(4)地租は、村の責任で一括納入するのではなく、地券を交付された地主が、個人の責任で納入する。
地租改正法が公布されると、堺県は、七年一月に高安郡の地租改正に着手し、三月には他の諸郡でも着手した(『府県地租改正紀要』)。地租改正では、地租額の基準になる地価の算定が最も重要な課題であった。七年五月、堺県は、「区長戸長心得書」「地主心得書」(『堺県法令集』二)を布達して、地価調査の方法を指示している。「区長戸長心得書」は、地価調査の重要性を強調するとともに、その公平を期すために区戸長および百姓総代の中から調査に立ち会う改租総代人を選出し、その氏名を改正掛に届け出ることを義務づけた。地価調査にあたっては、まず反別調査が行われた。その方法は、「地主心得書」に「反別取調方ハ(中略)、畦畔ノ四方ヘ標杭ヲ立、囲範ノ縦横ヲ量丈シ」とあるように十字法と呼ばれる測量方法を採用することになっていたが、地形によっては三斜法を用いる所も多かったようである(『府県地租改正紀要』)。測量を終えると、地主の申告を参考に収穫量とその代価、小作料とその代価などを調査し、地価を算定して、村ごとに「地価取調帳」を提出することになっていた。七月七日、堺県地租改正掛は、提出期限を七月三一日とすることを布達したが(『堺県法令集』二)、改正事業ははかどっておらず、実行されなかった。大蔵省からたびたび督励を受けた堺県は、八年一月、年内に地租改正を実現させるために、一月中に「反別帳」を作成、提出することを求めた(「演達之大意」『堺県法令集』二)。同時に布達された「演達書」は、具体的な測量法を指示しており、「反別帳」が提出されれば、係官を派遣して調査し反別を確定した上で、「地価取調帳」を作成、提出させることになっていた。明治九年一〇月に堺県が地租改正事務局に提出した伺い書によれば、高安郡を除く堺県県下諸郡の地租改正が進捗するのは「演達書」が布達されてからである(「地租改正事務局別報」五六『明治初年地租改正基礎資料』中)。