明治八年(一八七五)一月五日、古市(ふるいち)郡役所部内では、「地券御改正標木相建ル事等」を相談し、二二日には、二月から「畝歩等相改」に着手することになった。しかし、五小区十番組(富田林・毛人谷)には、まだ「演達之大意」は到着しておらず、「行届兼候得共粗相談シ候事」という状況であった。ところが、二八日早朝に飛脚が到来し、二九日に堺県の地租改正掛が富田林に宿泊するので反別帳を提出するようにという通達があった。二九日、早朝から戸長・副戸長・百姓総代などが地改めを行ったが吹雪のためはかどらず、壬申地券の時のままの帳面を提出したところ、二月二日、古市役所に呼び出され、改正掛から種々説諭を受けた。一二日に富田林村の検査が行われることが前日になってわかり、大急ぎで畝杭や人足を用意し、提出する反別帳の写しを作成し、夜になってから畝杭を打ち始め午前一時になってようやく打ち終えた。検査は厳しく、間違いのある所は帳面に朱書された。一四日、地租改正出張所から、訂正した富田林村の反別帳と毛人谷(えびたに)村の反別帳を、一六日に提出するよう通知があった。一五日早朝から実地調査に着手したが、壬申地券時の調査の誤りもあり、両三日の延期を願い出たが、一七日に提出するよう命ぜられた。一五日は夜九時まで、一六日も午後六時までかかってようやく終了した。五月三日、改正掛二人と随員五人が出向し、検査を実施した。翌日、次の検査地である甲田村に戸長を呼び出し、富田林村の反別改めがひとまず終了したことを告げ、訂正箇所をただした上で地所の等級を付け、村絵図新旧番号の二枚を作成して提出することを命じた。富田林村では、一四日に畝書(せがき)板を打って畝杭を撤去し、反別調べが終了した(以上富田林杉本家文書「日新誌」)。
毛人谷村の反別改めは、三月六日から始まり、四月一日にひとまず終了したが、その後も再調査が行われ、十番組では「此度ハ一段入念尺誤無之様相改候事」と力を注いだ。改正掛からはしきりに督励を受け、六月三日には早急に反別帳を提出するよう通達があった。六月八日、改正掛の検査が雨天で中止になったので、神山(こうやま)村(現河南町)に滞在中の改正掛に「反別取調書上帳」を提出した。これには、有租地の田畑・宅地の後に官有地・除地・池敷が列挙されていた。改正掛は、九日に神山・寛弘寺(現河南町)・別井・山中田(やまちゅうだ)村の検査をすませ、一〇日に富田林に至り、毛人谷・新堂・中野・喜志・新家村と古市郡新家・坂田・蔵之内村(いずれも現羽曳野市)の二手に分かれて検査を行った。毛人谷村の成績は良く、「石川郡の第壱等」と褒められた。近隣諸村の改正事業は容易にはかどらなかったようで、二七日には改正掛が富田林に来泊し、五小区・六小区の総代を呼び、反別帳の提出を督励している。反別調べの厳しさは、河内だけのものではなかった。六月六日、奈良県から厳しい通達を受けた大和国葛上(かつじょう)郡福西村(現奈良県御所市)の副戸長米田喜作なる人物が訪れて、河内の様子を尋ね、帳簿を見せてもらって種々意見を交換している(以上「日新誌」)。