地価の算定は、地価を資本とみなし、年六%の利益があるものとして逆算する方法が執られた。利益は、収穫物の代価から一割五分の種籾肥料代と地租および地租の三分の一の村入費を除いたものとする。地租は地価の一〇〇分の三と決まっているので、収穫量と収穫物(米麦)の価格が確定すれば、地価の算定が可能になる。高安郡を除く堺県下の米麦価は、堺・岸和田・枚方(ひらかた)・寺内(じない)(現八尾市)・富田林・国分(こくぶ)(現柏原市)・久宝寺(きゅうほうじ)(現八尾市)の明治三年から五年間の平均価格をとって、一石当り五円と算定された(『府県地租改正紀要』)。収穫量は、まず水利・運輸の便否、耕作の難易、水損・干損の有無などを斟酌(しんしゃく)して村等位を定め、その上で平年の作柄を調査して、村ごとに村等位に応じた反当(たんあたり)収穫量を定め、その適・不適を検討して関係者の意見が一致した額に決定することになっていた。
反別調査が終わった十番組では、明治八年(一八七五)七月に入ると収穫取調べ、地位等級の算定が始まった。それに先だち七月八日、富田林村浄谷寺に地租改正掛の出張所が置かれた。二四日、富田林村では平準講の席上、毛人谷村では高持(たかもち)を呼び集め等級調べの相談をしたが、どちらも意見がまとまらなかった。二五日には区長の要請を受け、地位等級収穫取調べの請書を作成して提出したようである。毛人谷村では、二六日早朝から高持および水利担当者が農地に出て地位を調査し、その後、西方寺で主立った者が立ち会って午後四時までかかって等級を定め、富田林村でも二九日に御坊を借りて等級の相談をした。その結果を受けて、三一日に戸長が改正掛出張所に出向き、十番組両村の収穫等級を訂正している。しかし、両村の収穫等級調べは改正掛の了承を得られなかったようで、八月五日から七日にかけて、副区長杉山(史料は「区長」)の立会い、督励の下で「収穫等級調帳」の確定を急ぎ、七日午後二時、調印の上提出している。新堂村も難航し、五日、収穫・等級について十番組戸長に相談している。一四日、浄谷寺の改正掛出張所は廃止され、改正掛は県庁に戻ったが、収穫取調べ、地等級の確定は難事業で、一七日、杉山が副区長を辞任し新堂村の平井と交代する。そのために開かれた古市会議所での会議の席上でもこのことが話題になり、特に一小区の村々の問題が取り上げられたようである。一九日には、大和吉野郡の上市・下市(現奈良県吉野町・同下市町)辺りで区長と戸長が争論し刃傷騒動になったという噂が伝わり、戸長杉本は、その日の日記に「扨(さて)々地券六ヶ敷(むつかしき)事也」と記している。一大区の中には、まだ完了しない村があり、二三日の古市会議所の会議では、「等級収獲<ママ>米書上不済村々早々可書出」という通達が成されている(以上富田林杉本家文書「日新誌」)。十番組の提出した「収穫等級調帳」がどのようなものであったか不明であるが、谷口家(岸之本)には、八年七月に龍泉村が県令に提出した「地位等級取調帳」の控が残されている。ママ>
政府は、地租改正を実施するにあたって、今までの歳入を減らさないという方針を執り、全体として目標地価額に到達するように収穫量を逆算して、村方の申請より多い収穫量を押し付けようとした。堺県でも、八年一二月に「堺県下河内国田畑収穫等級表」(『東大阪市史』近代Ⅰ)を公布し、田畑をそれぞれ一五等級に分け、田方(たかた)の収穫米は一等級二石四斗、一五等級一石七斗、畑方(はたかた)は一等級一石九斗、一五等級九斗と決めている。おそらくこれによって収穫量・村位を決定し、地価を算定したものと思われる。そのため村方の不満は大きく、嘆願書を提出した村も多かった。
村々の「地位等級取調帳」は八月ごろに提出されたが、一一月になっても、県から何の連絡もなかった。十番組戸長杉本藤平は、一一月二一日の日記に「地租改正之義相尋候所、未確定相成兼候由、種々噂も有之共、実ハ尓今(いまに)御披露無之事ハ実也、大躰ハ御見積御取極も有之由、表向被仰出ハ無之、只下々評論而已候也」と記しており、不安を抱きながら、いろいろと噂をしていたようである。二六日には、「三小区余程増税ニ相成由、小前騒敷事」「平尾・東野・西野田新田・菅生・両野田・今熊等格外増也」と記し、「当小区拾番如何心配スル」と不安を述べている。また、商用で訪れた中河内の福万寺村(現八尾市)の糸十からは、「改正租税田畑平均壱反弐円四十七銭何某」と聞いている。一二月二日、古市会議所に出掛けても「地租改正未不分」という状況であり、一一日には杉山と相談して、副区長平井に十番組の収穫米のことを尋ねてくれるように頼んでいる。そして書類を借りて帰り、対策を練っていたようで、「何分ニも収獲<ママ>之義ニ付一段勉強心配之事」と記している。二二日、地租改正掛から呼出しがあり、「仮免状」が下げ渡された。県庁は混雑しており、翌日正午ごろになってようやく請印帳を提出して帰村し、二四日、「仮免状」を富田林・毛人谷の副戸長に手渡している。結果は「当聯合改正租税相減シ一同大悦、春来労勤一時ニ氷解」ということになり、翌日、この仮免状に基づき収穫米等級割賦に着手している(以上富田林杉本家文書「日新誌」)。九年一月六日に副戸長が堺の詰所に出向き、「収穫引直シ帳」を提出した。一二日には、「引直し帳」「改正村絵図」を三月末日までに提出するよう達しがあった(同「日新録」)。ママ>