明治八年(一八七五)一二月二五日、古市会議所で地租改正について緊急の会議が開かれ、三一日には大晦日にもかかわらず平井副区長の召集で会議が開かれた。議題は、改正掛から示された収穫米等級の引直しを嘆願することであった。十番組では、九年の元日早々から集議所で集会を開き、嘆願の打合せをしている。一月三日、新堂村の火事見舞いを兼ねて平井を訪問した杉本は、「収穫帳」と「御下ヶ引直シ帳」を持参して相談し、五日には年賀に訪れた石原村(現堺市)で一大区の戸長たちと意見を交換している。その夜、「収穫引直シ帳」などの清書をして、六日、副戸長の和田が堺の詰め所に赴き、区長に提出した。その直後、一大区村々の嘆願書に「収穫引直シ帳」を添えて区長が堺県に提出したようである。嘆願はただちに却下され、一二日、古市会議所に戸長を召集して、「新租歎願大ニ御叱りニ而無採用、一ヶ村も不残引直し願候故也」と却下の理由が示された。その上で、「是非相続難相成村々」は、個別に三月三一日までに「引直シ帳」と「改正村絵図」を提出するよう達した(以上富田林杉本家文書「日新録」)。以後、村々は、それぞれの理由を掲げて修正を嘆願することになる。
二月一〇日、副区長が十番組の集議所を訪れ、五小区の下畑のうち、山畑新開分の引直しが行われ、二小区でも三番組と四番組とが引直しを出願することを伝え、十番組の意向を尋ねた。一三日には副区長から呼出しがあり、木畑というのは茶園や蜜柑・桃・桑畑などで、農作物ができない土地であり、収穫米は三斗であることを告げられた。毛人谷村では、茶畑の麦を取り除かせ、一四日、見分の出役を蜜柑畑・茶畑に案内している。この結果、毛人谷村は、木畑が一反四畝一一歩となり、畑方の収穫米が減少し、畑全体で一反につき一斗五升も減少した。富田林村は、体操場跡が宅地に編入された。三月一日、両村は、これに従って地租改正の請書を変更している(以上「日新録」)。
板持村・新堂村は、三月になっても「地租改正不公平ニ付、一同不服ニ付甚六ヶ敷、夫々故障而已多シ、後日如何」(「日新録」)という状況にあった。彼方村は、以前から年貢の負担に苦しんできたが、壬申地券が交付されても租額に変わりはなかったので地租改正に期待をかけ、他村に先駆けてでも地租改正を実施してもらいたいと、明治七年、「地租改正御願書」(彼方土井家文書)を堺県に提出した。ところが、地租改正の結果は、提出した「地位等級取調帳」の収穫米を上回る収穫量を押し付けられることになった。そこで、九年二月一九日、彼方村は、検見による収穫米の算定を堺県に嘆願している(同)。
堺県の地租は、九年一〇月四日に地租改正事務局総裁の認可を得て、九年から新税に切り替えられることになった。堺県に出張して調査に当たった地租改正事務局の係官の報告によれば、反別は、田が三五%余、畑宅地が三一%余増加し、収穫量は一反歩平均、田が米一石九斗四升余、畑が一石六升余で、地租は旧税に比して五万円余の減収となった(「地租改正事務局別報」五六『明治初年地租改正基礎資料』中)。『府県地租改正紀要』によれば、錦部郡で田方の一村平均収穫高・地価が最も高かったのは甲田村で、反別六五町一反七畝二歩、収穫高一四二七円二三銭八厘、地価六万〇六五七円六一銭五厘で、一反当りの収穫高は二円一九銭、地価は九三円七銭五厘であった。畑方の最高は錦郡村で反別二反九歩、収穫高二円一三銭二厘、地価九〇円六一銭で一反当りの収穫高は一円五銭、地価は四四円六三銭五厘であった。また、富田林村の宅地は石川郡で最も高く、反別八町九反七畝、地価一万〇一六六円で一反当りの地価は一一三円三三銭三厘であった。この反当地価は、茨田(まった)郡三矢村(現枚方市)、若江郡大信寺新田(現八尾市)と同額で河内国では最も高く、大阪府下でも摂津国西成郡難波村(現大阪市浪速区ほか)の二三〇円、和泉国南郡貝塚町(現貝塚市)の一一八円五銭六厘に次ぐものであった。