勧業政策の展開

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明治一〇年(一八七七)一月、内務省は勧業寮を改組して勧農局を設置し、農業や関連製造業の改良を図った。堺県は、同年一二月一三日に勧業掛兼修路掛を一大区に二人ずつ置き、一一年四月一九日には「農事仮通信心得」(『堺県法令集』三)を布達し、小区の正副戸長にその事務を担当させた。「農事仮通信心得」は、小区内の農事の景況と勧農事務の状況を県勧業課に報告させ、勧農局の意見や農家の参考になる内外のニュースを伝達することを目的としていた。一三年一二月二四日、堺県は、「勧業世話掛長並世話掛心得」および「勧業通信仮規則」(『堺県法令集』四)を布達し、郡役所部内に勧業世話掛長一人、聯合町村に勧業世話掛二人を置いた。彼らは、農談会の会員を兼ね、勧業上の意見の具申、勧業課や郡役所の諮問(しもん)調査への応答、「通信仮規則」による通信、種苗の分配交換の周旋、試作植物の栽培方法の報告などを任務とした。古市郡役所部内の勧業世話掛長には、新堂村の平井四郎次が任命され、一四年三月、部内の景況について「米価ハ一石拾円三、四拾銭、麦ハ六円以下ナリ、金融ハ旧ニ依テ悪シク、商業随(したがつ)テ不景気ナリ」(『大阪府勧業月報』三)と報告している。

 大阪府は、一四年二月に堺県を合併すると、八月、従来の規則を廃止して新たに郡区勧業世話掛を設け、「勧業世話掛心得」と「勧業通信仮規則」(『大阪府布令集』三)を制定した。石川・八上(やかみ)・古市・安宿部(あすかべ)・錦部・丹南・志紀郡役所部内の勧業世話掛の定員は二人であったが、古市・石川・錦部三郡は錦部郡市村新田(現河内長野市)の中村与市、志紀・安宿部・丹南・八上四郡は志紀郡船橋村(現藤井寺市)の松永森太郎が任命された(『大阪府勧業月報』二六)。勧業世話掛は、戸長その他の官吏を兼任することが許されず、郡長の監督の下に担当部内の勧業事務を担当するとともに、勧業通信員として担当部内の農工商の景況を府の勧業課に報告し、それが勧業課の刊行する『大阪府勧業月報』に掲載された。さらに一七年一〇月九日、「勧業委員及庶務準則」「勧業会設置準則」(『大阪府勧業月報』四七)を制定し、町村もしくは聯合町村に勧業委員を置き、勧業会を開設することを認めた。富田林郡役所では、郡ごとに月一回各役場輪番で勧業小集会を開くことになったが、錦部郡では欠席者が多くて効果が上がらないので、一九年一二月一日、「錦部郡勧業小集会々則」を定め、年四回、三日市村(現河内長野市)の戸長役場で開催することになった(西板持土井家文書)。

 石川外六郡役所部内の共同植物試験場は、毛人谷村に設けられ、仲井源次郎が担当する稲作の試作状況が、一八年三月の『大阪府勧業月報』五一号に詳しく報告されている。一九年には、錦部郡新家村の内田忠治・内田猪十郎、板持村の土井寅市が兵庫県産の神力種の稲の試作を行った結果が、勧業委員内田忠治から報告されている(『大阪府農商工月報』五)。石川外六郡役所部内では、戸長役場も勧業に努め、農業勉励者に鍬・鎌など農具を賞品として授与している。市域では、一九年一月・二月に石川郡の新堂村外一ヶ村戸長役場三五人、富田林村外一ヶ村役場一〇人、喜志村役場四八人、南大伴村外四ヶ村役場二七人、錦部郡彼方村外四ヶ村役場二五人、錦郡村外二ヶ村役場二一人、新家村外三ヶ村役場三四人が挙げられるが、注目されるのは、富田林村・毛人谷村で、賞品として農具以外に算盤・矢立(やたて)が賞品として授与されている(『大阪府勧業月報』六二・六三)。

写真17 『大阪府勧業月報』第51号(国立国会図書館所蔵)

 大阪府は養蚕にも力を注ぎ、養蚕伝習所を一六か所(うち大和国五か所)設置した。古市村の伝習所は、二〇年五月二〇日に開設されたが、七月ごろには男二三人、女四四人の生徒が入所していた(『大阪府農商工月報』一二)。二三年八月二一・二二日、富田林村で民間の主催する繭生糸品評会が開かれ、石川外六郡から一五四人、一六一点の出品があり、四五〇〇人の来観者があった(『大阪府農商工月報』四九)。しかし、木綿商を営む杉本藤平は、批判的であった。養蚕は、出羽・陸奥など寒国のもので、畿内や南海道には向かない。上方は上国で稲作・綿作が中心で、京阪近傍では野菜で利益を上げている。いかに御一新の世でも天地の気候に逆らうことはできず、国益にはならないというのである。一九年八月一三日、富田林御坊で行われた郡役所勧業掛の演説に対し、「官員衆ノ給料取故上申ニテ相成事哉」「人民信セサランカ然(しから)ハ僥倖(ぎようこう)ナリ」と決めつけている(富田林杉本家文書「日新誌」)。