明治一四年(一八八一)九月、石川郡佐備村では「農業改進ノ方法」(堺市西本英司家文書)という四五か条からなる勤倹規則を定めている。その序文は、二〇年来、財産を売却して村を出たり借金をする者が多く、特にここ一〇年は貧民が著しく増加し、二〇年前は人並みの百姓が一五〇余戸中一〇〇戸以上あったのが、今では五〇戸に満たなくなっていると指摘する。その上で、「人民ノ利益ヲ謀ル御時政」であるから、「農業ヲ改進シ無益ノ失費ヲ廃止」し村勢を回復しようというのであるが、内容はまったくの倹約申合せであった。一六年は大干魃で、松方財政による不況に拍車をかけることになった。錦部・石川・古市三郡では、川水で灌漑する所は平年の八割程度の収穫があったが、池水に頼る所は一割五分から二割の収穫にすぎず(『大阪府勧業月報』三五)、丹南郡などは「旱損村々聯合シテ金拾万円府庁ヘ拝借願ヲ日々郡役所歎願」する有様であった。小作料の減免が行われ、中野村では村役人・高持達が回村見分して、最大一反に五斗の免引と手間賃米の支給を決めている。木綿をはじめ物価も低落し、「(木綿)実安価ニ驚愕ス、何れノ商人モ損ン/\トノミ、実ニ意外ニ諸品低落ナリ」という状況であった(以上富田林杉本家文書「日新誌」)。一一月、富田林郡役所部内の聯合村会は、冠婚葬祭・見舞・興行など五年間の節倹法を定め、違反者からは違約料を徴収した。また、賃金についても大工・左官・家根屋日当一八銭、手伝・黒鍬(くろくわ)一二銭、日雇男上等八銭、女上等五銭とし、奉公人給は前年の三割減、綿打賃一〇〇目一銭と定めている(富田林仲村家文書)。
一七年、景気はさらに後退し、五、六月ごろには木綿は値下げをしても売れず、機業者は不引合を唱えて売ろうとしない事態に陥った。五月二六日、兌換(だかん)銀行券条例が定められると、新聞は、銀貨が低落して秋には物価が一層下落するだろうと商人の注意を促した。京阪の景気はますます悪化し、木綿商の杉本藤平も「遊ひ同様ナリ」という有様であった。富田林村では、八月、生計困難な者が六〇人ばかりもあり、困窮百五、六十戸が五円ずつ三か年賦借用を願い出た。村では八月一六日に臨時相談会を開き、救助することを決定し、身元よろしき者に相談して粥の炊出しなども実施した。一二月、甲申事変の新聞記事が出ると、米価をはじめ諸物価、銀相場が急騰し、綿や木綿も高値になった。年末、開戦の危機が迫ると米相場はさらに上昇し、富田林の米価は六円五、六〇銭になり、綿も一〇円以上、繰綿は一反二五円五、六〇銭になった。しかし、一八年一月には事件が解決し、金銀相場、物価とも下落して、一月中ごろには摂津米相場も六円以下となり、杉本は値下がりを恐れて木綿の仕入れを見合わせている。四月、中野村では難渋人のために二〇石の救助を集めている(以上「日新誌」)。
一八年は、不況に水害が加わった。六月一七日、梅雨の大雨で枚方の淀川堤防が決壊し、枚方から大阪市中に至る淀川左岸が浸水した。さらに六月二八日、豪雨が襲来し、七月三日まで降り続き、枚方の決壊箇所から洪水が流入し未曽有の大洪水となった。石川も、六月三〇日午前三時ごろ、山中田村と北大伴村で決壊した。中野村・新堂村の堤防も破損し、鐘を撞き人足を集めて防いでいたが、七月一日午前一時ごろに中野村、一〇時ごろに新堂村の堤防が決壊し、被害が拡大した。雨はますます激しく、「最早(もはや)人力もツキテ致し方無之皆落胆ス、切処(きれしよ)カセク<ママ>気勢ハナシ、只天命に任スノ工合、此上ハ人足も怪我セヌ様と警官も注意サル由、扨々如何成悪年カ、如此(かくのごとく)重々ノ不順民大ニ迷惑困却ス」(「日新誌」)という事態になった。田植えは一週間も遅れ、水害で砂入地となった耕地も多く、農作物の被害は大きかった。不況は深刻になり、一八年七月刊行の『大阪府勧業月報』五五号は、「石川郡は世上の不景気より金融悪しく、随て諸物価低落し、加之購求者僅少なれは自から得る所の利益少なく未曾有の衰頽(すいたい)を来たせり、工業も商業に伴ひ不振、職工賃金は前年に比し十分の二を減せり」という報告を掲載している。一九年になっても景気は回復せず、三月四日杉本は、「本月ハ実近来未曾有不印、注文漸(ようやく)七、八固(箇)ナリ、大驚愕ス、故ニ本日より三日間買休ミスル積リ也」と取引を中止している。村財政も行き詰まり、富田林・毛人谷両村(第一戸長役場)の聯合村会は、教育費・役場費・災害予防費の予算を半減することに決した(「日新誌」)。その金額は不明であるが、ちなみに一六年の富田林村では、教育費が全体の五三・一%、その約八〇%が教員給料で、役場費は三五・八%を占めていた(富田林杉田家文書「村会議案」)。教育費・役場費の半減は、予算全額の半減に近いものであったと思われる。もっとも、翌日、郡長の説得があり、教員給料八円余を増額している(「日新誌」)。ママ>