明治前期、綿織物業は再編の時期を迎えていた。バッタン(手織機の一種)の導入と安価で品質均一な輸入綿糸の増加が綿布の低廉化をもたらし、綿作と在来の綿織物を圧迫するようになった。河内木綿の不振の原因の一つは、粗製濫造、尺巾の広狭など質の低下にあった。明治一四年(一八八一)一二月、大阪木綿太物商仲間が大阪府知事に「諸国木綿尺幅改良ニ付願」を提出し、当面泉州の白木綿の改良を図るため、織元や木綿業者に説諭して欲しいと願い出た。知事は、一五年一月、泉州の郡区役所・戸長役場に説諭方を通達している(富田林田守家文書「大阪木綿太物商仲間和泉国木綿荷主尺幅改正条約証」)。大阪木綿太物商仲間は、河内の木綿商仲間にも一五年四月九日、一か年の製造高・平均値段・尺巾などの照会書を送付した。一二日、田守・杉本・[西(挿入)]北野ら富田林の木綿商は合議して、白木綿一か年製造高約一〇〇万反、一四年中値段平均一反に七〇匁、巾九寸以上、丈五丈二尺以上、ただし三尺三寸一六尋(ひろ)、三尺七寸五歩一四尋と決め、今後すべて尺改めをして買い入れることを申し合わせた。一三日に大阪に出向いて回答することになっていたが、実行されたかどうかは定かでない。一七日、八尾の木綿商仲間から申込みがあり、大阪木綿商仲間の照会の件について八尾・富田林南北の同業者の集会を、二〇日に柏原で開催することになった。この集会の結果も不明であるが、その後も協議が続いている。そのころ、泉州では大阪の木綿太物商仲間の意向で約定書が定められ、丈尺の基準が厳しくなっていたようである(以上富田林杉本家文書「日新誌」)。
五月一日、大阪府知事は河内・大和の郡区役所・戸長役場に布告を発し、「近来不良ノ徒漫(みだ)リニ眼前ノ小利ニ迷ヒ、永遠ノ鴻益(こうえき)ヲ忘却シ、間々濫製粗造尺巾ヲ短縮シ、着用ノ効ヲ為サヾルモノ往々有之」「其ガ為メ良品ノ声価ヲ隕(おと)シ、需用者ノ信用ヲ失シ、其極産地ノ衰頽ヲ来シ、織元一同ノ損害ヲ招クハ眼前ノ事ニ候」と指摘し、「各織元同業者協議ヲ尽シ、便宜申合規約ヲ設ケ、尺巾ノ定度ヲ立テ、漸次品質改良ノ法ヲ設クル」ことを指示した(『大阪府布令集』三)。これは、一月二八日、泉州に発せられたものと同じものである(『大阪朝日新聞』明治15・2・7)。大阪の木綿商仲間からは、五月六日、尺巾改良を大阪府に願い出て許可を得たので、一〇日に出頭して欲しいとの連絡があったが、富田林では一一日に八尾組と協議することになった。その結果、田守・杉本・北野が合議の上、二二日に富田林の木綿屋仲間を村会所に集め、尺巾改良の相談をしている。富田林の木綿商仲間は、六月二六日に浄谷寺で集会を開き、委員を選出しているが、他の仲間との調整が進捗しなかったらしい。八月一二日、改良問題がはかどらないことを憂える古市郡役所から呼出しがあった。富田林では、八尾に連絡を取り、二一日三人が古市郡役所に出向いて、遅くまで協議している。二五日、八尾寺内村慈願寺に河内国各郡役所部内から改良取締委員一〇人ずつが集まり、丈尺取決めの会議を開いた(以上「日新誌」)。この結果、「河内木綿取締規約」(近代Ⅵの二)が締結されることになった。この規程は、白木綿地一匹長さ長尺五丈七尺以上、並尺五丈四尺以上、巾九寸以上と定めたのを初め、縞・飛白(かすり)・無地木綿地、夜着縞地、暖簾(のれん)地、看板地、足袋底当地、巻袋地の尺巾を定め、紺色の物は正藍で染め上げることを義務付けた。合格品には所定の朱印を押し、あるいは印紙を貼付し、違反者からは違約金を徴収することを定めている。九月二三日、古市郡役所から規約書の印刷部数を問い合わせてきたので、部内同業者約三百四、五十人として、四〇〇部を印刷することにした。一一月六日、規約書の印刷ができ、郡役所から届けられた。一六日、大谷庵に各組合の代表が集まり、規約書を配布しているが、富田林では、翌日に村内の木綿商に配布している。規約書は一六年二月八日から実地適用されることになり、三月一日、部内木綿業者の集会を開いて、三月一五日から検査印を捺すことを決めている(「日新誌」)。
一五年一二月、八尾郡役所部内の小川村(現松原市)の織元三五人が、木綿仲買商の作成した規約書を承諾する請書を郡役所に提出するとともに、実施上において問題が生じた時には、織元が協議して方法を設けたいと上申している(松原市吉永家文書「上伸書」)。この木綿改良法は、大阪の木綿問屋の要求を受けて大阪府が指導し、河内の木綿仲買商が作成したもので、織元もこれに従わざるを得なかったのである。