辛未徴兵

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明治三年(一八七〇)一一月一三日に公布された徴兵規則は、全国の道・府・藩・県から士族・卒・庶人の別なく、身体強壮で兵卒の任に堪えられる者を、高一万石に五人の割合で大阪兵部省に徴集しようとするものであった。大阪兵部省とは、兵部省の大阪出張所のことで、大阪出張兵部省あるいは大阪兵部省と呼び慣らわされていた。当時、大阪は、大村益次郎の遺志によって軍隊創設の拠点になっており、徴兵計画も、大阪兵部省を中心に進められていた(『新修大阪市史』五)。徴兵の対象となるのは、数え年二〇歳から三〇歳までの身長五尺(一五一・五センチ)以上の「身材強幹筋骨壮健」な者で、「一家ノ主人又ハ一子ニシテ老父母アル者、或ハ不具ノ父母アル者等」は除外された。任期は四年で、任期中は私的な理由で退役することは許されず、希望者は再役が認められた。在役中の衣食・給料・退役時の旅費などは兵部省から支給され、入営時の大阪までの旅費は地方官が負担するが、それ以外の金品を地方官が支給することは禁止されていた。徴兵の方法は、地方官が適当な者を選んで差し出すことになっており、具体的な人選は村に任されていたが、医官の検査に合格しない場合は、代わりの者を選んで差し出さなければならなかった。

 この徴兵は、明治四年辛未(しんび)の年に実施されたので、辛未徴兵と呼ばれている。最初の予定では、四年一月二五日から二月一日までの間に畿内・山陰道・南海道から徴集し、以後順を追って全国に実施することになっていた。ところが、四年二月二八日に兵営の建設が遅れていることを理由に、畿内・山陰道・南海道以外の徴兵を三か月ずつ延期し、さらに五月二三日には東海道の藩県に「追テ期限被仰出候迄差出方見合セ可申事」(『法規分類大全』兵制門兵制総)と通達して、北陸道だけに徴兵を実施し、他の地方は事実上中止してしまった。辛未徴兵は、畿内周辺に限って一度実施されただけで中止され、まもなく大阪兵部省も廃止されてしまったので、その実態はほとんど知られていない。

 五条県や堺県では、徴兵規則が公布されると、いち早く村々に布達して該当者の報告を求めた。ところが、該当者がいないと報告する村が多く、堺県では一二月に再度通達を発して、必ずしも徴兵されるとは限らないので、遺漏なく書き出すようにと督励しなければならなかった(『堺県法令集』一)。五条県でも、再度徴兵の差出しを命じ、四年一月一二日には、徴兵の遅れている大和国吉野郡の総代を召喚して、一六日までに差し出すことを約束させている(服部敬「辛未徴兵の実態」花園大学文学部史学科編『畿内周辺の地域史像』所収)。督励を受けた堺県下の村々では、期限までに五三人の適格者を選んで差し出したようで、検査の結果三七人が合格して二月七日に入営した。不合格者一六人については、兵部省から代わりの者を差し出すよう指示があり、差し出したところ一三人が合格し、四月二三日に入営した。不合格になった三人についても、後日補充されたようである。五条県では、大和国吉野郡の徴兵の事情が明らかになっているが、河内国石川・錦部両郡の実施状況は未詳である。ただ、「大阪府史料」に次のような記載がある。他の事例からみて、辛未徴兵で任期を待たず除隊した者である可能性が強い(「大阪府史料」五四 旧堺県制度部 兵制)。

                           河内国石川郡喜志村

                                       廿山(つづやま)嘉蔵弟

                                          廿山喜市

右過ル辛未年大嘗会(だいじようえ)之砌(みぎり)金弐分永四十四文六分被下物有之候所、其後除隊相成候ニ付差送リ候間、乍御手数御渡方有之度、此段御依頼申進候也

  明治六年一月廿七日                            大阪鎮台 印

        堺県庁

写真20 「大阪府史料」54 旧堺県制度部 兵制 (国立公文書館所蔵)

 徴兵規則では、地方官が徴兵に金品を支給することを禁じているが、人選に困った吉野郡では、村方から手当てを支給しており、徴兵は、手当ての増額を要求して脱走事件まで引き起こした。手当ての支給は吉野郡に限ったものではなく、堺県や奈良県でも支給されており、吉野郡よりも高額であったと思われる。吉野郡の徴兵は、「奈良県・堺県御同様之御取計貰度」と要求しており、吉野郡総代からの伺いを受けて五条県も、徴兵の給料は県から申し付けることではないとしながらも、奈良県・堺県と同様の取扱いをするように指導している。各地の徴兵は、情報を交換して給与の引上げをはかっていた可能性がある(服部前掲論文)。それに対抗するために、五条県下の各郡総代も連絡を取り合って対策を立てようとしていた。四年六月一八日、吉野郡総代は大和国宇智郡・河内・紀州の総代に次のような書簡を送っている(奈良県大宇陀町与熊文郎家文書「御県御布令帳・至文」)。

扨(さて)先般中兵部省請人足一条御相談申上候、来ル六日大坂各省ニ而人足之者ト懸ケ合可仕候筈之処、吉野郡之義者此間中出坂致シ懸合致し候処、若哉(もしや)操合ニ相成候ハヽ両三日之内沙汰有之、尤も給金定メ之義者外奈良県其外有之候間問合候故、右大坂行之義者見合可仕候積り御座候間、右様御承引可下候

 辛未徴兵は、山県有朋が「四民平等ニ賦兵ヲ徴召セムトノ趣旨ヲ遂行スヘキ、第一歩ニ外ナラサリシナリ」(「徴兵制度及自治制度確立ノ沿革」国家学会編『明治憲政経済史論』)と述べているように、士族・平民の別なく平等に徴兵しようとした点で徴兵制度の先駆をなすものであった。畿内周辺に限られてはいたが、藩領も含めてかなり徹底して実施されており、検査も厳重で、一二〇〇人が検査を受けて三〇〇人余が不合格になったといわれる(飯島茂『日本選兵史』)。当時の探索書は、「大阪兵部省兵隊之規則厳重ニ而騎兵・歩兵共市中暴行候様之義絶而無之、甚市街之評宜御座候」(三条家文書)と伝えており、規律が守られ市中の評判も良かったようである。しかし、その人選が村請けになっていたため、徴兵要員を確保するのに、規則に反して村方から手当てを支給するなど問題が多く、早々に打ち切られることになった。徴兵による国民皆兵制は、廃藩置県によって中央集権的政策が可能になり、国民を直接掌握する戸籍が整備されるのを待たねばならなかったのである。