廃藩置県直後の明治四年(一八七一)八月二〇日、東山道鎮台・西海道鎮台が廃止され、新たに東京・大阪・鎮西・東北の四鎮台が設置された。当面の鎮台常備兵は、旧藩兵を召集することになり、辛未徴兵の打切りを正式に宣言した。大阪鎮台も、四年一二月、旧和歌山藩歩兵四小隊を召集している(「和歌山県史案」制度 兵制「和歌山県史料」所収)。しかし、大阪鎮台には、大阪兵部省から引き継いだ辛未徴兵が在営しており、藩兵の召集よりも四民の徴募に力を注いだようである。五年九月現在、大阪鎮台には二三〇六人の歩兵が在営していたと思われるが、砲兵隊の分を合わせると、伍長兵卒四八一人が不足していた。そこで大阪鎮台は、任期二年の補欠兵を募集する計画を立て、陸軍省に具申した。陸軍省は、大阪鎮台管下の府県に募兵の通達を出し、堺県にも六年二月二〇日、「其県管下四民之内砲兵并歩兵望ノ者、大坂鎮台兵補欠トシテ召集申付候条、別紙概則ニ照準シ、合格之人員取調早々同台ヘ可申出」と通達した(「堺県公文録」二『堺研究』六)。同日、大阪鎮台も、堺県に次のように申し入れている(「大阪府史料」五四 旧堺県制度部 兵制)。
当台附兵隊為補欠於其県下四民之内兵役望之者、元岸和田藩ヨリ召集ニ及度、尤、今般全国鎮台配置改定被仰出、徴兵令等発表相成候得共、当台之義ハ急速募兵之手始ニモ難相成候間、前条之補欠兵於当台管内召集申付度、望之者有之候得ハ別紙概則ニ寄リ御取調之上来月十五日迠ニ御申越有之度、此段申進候也(中略)
追而本文元岸和田藩ニモ限リ不申、御管内何レノ場所ヨリ御取調ニテモ不苦候、尤、本文望人有之候得ハ御答次第為身体検査官員差立候ニ付、此段モ御承知厚御尽力至急御取計有之度申入候也
一月一〇日に徴兵令が公布されているが、大阪鎮台で徴兵令による徴兵が行われるのは七年からであり、それまで待てないというのである。徴兵令による徴兵との混同を避けるため、陸軍省から大阪府・京都府に出された達書には、「本文召集之儀ハ、今般被仰出候徴兵令ニ照準致シ候儀ニハ無之候。全ク別段之儀ト可相心得事」(『陸軍省日誌』一)という追い書が付せられていた。これを受けて堺県は、二二日に次のような布令を発した(『堺県法令集』二)。
今般大坂鎮台兵隊為補欠、別紙兵卒検査概則合格之者召集候ニ付、夫々兵卒懇望之者、概則ニ照準シ、来ル三月二日十二時迄願書可差出事(中略)
鎮台召集兵卒検査規則
此概則、鎮台召集之為メ相定メ候義ニテ、将来之条例ニ管セサル者トス
一、身体強壮ナル者 県下ノ医員ニテ一ト通リ検査ヲ受ベシ
一、年齢ハ二十歳以上三十歳以下タルベシ
一、身ノ丈ケ曲尺(かねじやく)ニテ五尺一寸以上ノ者タルベシ
一、自家ノ産業ニ於テ故障ナキ者
右之概則ニ依リ検査ノ上、別紙表ニ当リ結隊編束ノ事
兵卒誓文
一、朝廷ノ為メ、身命ヲ捨テ奉仕致シ可申事
一、陸軍省御規則及ヒ時々御布令等、固ク相守可申事
一、私ノ故障ヲ以テ、妄(みだ)リニ退営申間敷事
右之条々固ク相守リ、聊(いささか)モ違背仕間敷、依テ為後証如件
願書と誓文は二部ずつ作成し、区長・戸長の奥印を請けて、区ごとに区長がまとめて提出する。検査は三月から四月にかけて実施され、合格すればただちに入隊することになっていたが、応募者は少なかったようである。四月、堺県は再び次のような布令を発している(『堺県法令集』二)。
嚮(さき)ニ徴兵ノ大意御告諭ニ相成、方今取調中ニ候得共、其分ハ直ニ召集可致義ニモ無之故ニ、徴兵令御規則之外、猶鎮台管轄府県ヨリ数千ノ壮兵至急相募候義ニ付、管内ノ士民男児十五歳ヨリ三十五六歳迄ノ者採用候条、各御趣意ヲ貫徹シ、兵役望ノ者ハ夫々戸長ニ就キ可申出、仮令(たとえ)身分有之ト雖(いえども)、聊無遠慮可願出、尤大阪鎮台ヨリ出張検査ノ上入営差許候条、父兄ハ勿論区長戸長各奮発、子弟ヲシテ速ニ兵役就クヘキ様、懇々説諭可有之事
督励は十分な効果を上げることができなかったようであるが、六月六日から一五日にかけて行われた検査には、河内国一四七人、和泉国九五人が受検した。本市域では、河内国第二十五区錦部郡廿山村の置田冨吉、第二十七区石川郡中野村の村本藤太郎、第二十八区石川郡北別井村の武田房次郎が受検している(「大阪府史料」五四 旧堺県制度部 兵制)。中野村では、「壮兵出仕」として前記村本藤太郎二六歳一一か月と共に西條熊太郎二五歳四か月を書き上げ、「明治六年六月二二日入営」と記しており(新堂平井家文書)、西條は、六月一五日以後に検査を受けたものと思われる。さらに、河内国第二十七区「壮兵名前帳」(新堂平井家文書)には、新堂村の松原七郎三四歳と松原幸則二八歳が書き上げられている。七郎は、肥後国菊池郡菊池村(現熊本県菊池市)山部良平の子息で、新堂村松原幸昭の養子である。幸則は、松原幸昭の子息であり、二人は義兄弟である。祖父は松原上総といい、上州下館(現茨城県下館市)の出身で新堂村の松原家の婿養子に入った人物である。
『陸軍省日誌』六月二九日の項に「大阪鎮台召集堺県壮兵過日検査相済、別紙名録之通り二百十名去ル廿三日着阪致シ候ニ付、直ニ砲兵第七大隊並歩兵第四大隊へ編入申付候段、同台ヨリ届出」という記載がある。別紙名録は省略されているが、一一日と一二日に検査を受けた交野(かたの)郡出身の壮兵二人が六月二三日に砲兵第七大隊と歩兵第四大隊に入隊しているので(服部敬「明治六年の壮兵徴募」『花園史学』二〇)、この二一〇人が六月に受検した壮兵であることは間違いない。彼らは、七年二月から五月まで、佐賀の乱鎮定のために熊本から佐賀に出動し、八年三月には任期を満了して除隊している。辛未徴兵の任期は四年で、六年壮兵の任期は二年、辛未徴兵の残任期間と同じであり、六年壮兵は、辛未徴兵の不足を補うものであったといえる。