徴兵令の施行

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明治六年(一八七三)一月一〇日、徴兵令が公布され、免役者を除く徴兵適齢者全員に検査を行い、徴兵を選出することになった。徴兵令では、徴兵使が軍医などを伴って府県に出張し、地方の官員と一緒になって徴兵署を設置して徴兵事務を行うことになっていた。徴兵使の府県巡行は、二月一五日から開始され、府県ごとに徴兵検査・抽選・筆算試験の結果を「人別明細連名簿」に記載し、陸軍省と鎮台に提出する。常備兵に決まった徴兵は、四月二〇日から五月一日までの間に、府県ごとに戸長・副戸長に引率されて入営する。常備兵の任期は三年で、任期を満了して除隊すると二年間第一後備軍に編入され、その後さらに二年間第二後備軍に編入されて、非常の場合には動員されることになる。また、常備軍・後備軍以外の一七歳から四〇歳の男子は、すべて国民軍として兵籍に登録された。

 大阪鎮台管下の徴兵は、明治七年から歩兵と砲兵に限って実施された。しかし、六年四月、堺県は、免役規定に該当する者以外の兵籍簿を作成し、五月一五日までに提出することを命じた(『堺県法令集』二)。これは、同年三月一八日に陸軍省が、「本年中満二十歳之者並ニ免役規定ニ当ル者」を調査し、「徴兵連名簿」「免役連名簿」を六月末までに提出するよう、東京鎮台管下府県を除く府県に布達したのによるものであった(『法令全書』)。この布達には、「本文之儀ハ取調置候而已(のみ)ニテ直ニ召集致候義ニハ無之候事」という但し書が付いており、調査がただちに徴兵に結び付くものではなかった。

 明治七年の徴兵は、予定どおり実施され、本市域では、錦部郡伏見堂村の荒堀房吉が常備砲兵として、廿山村の左近富蔵、板持村の田中熊吉が常備歩兵として入隊し、石川郡新堂村の根木種吉と錦部郡廿山村の中尾浅吉が補充歩兵となった(「大阪府史料」五四 旧堺県制度部 兵制)。明治七年河内国第二十七区の徴兵適齢者と一三年河内国第一大区五小区の徴兵適齢者の内訳を表にしたのが表8である。「徴兵調」は、六年一二月、二十七区の六か村から区長に提出したものであるが、七年の徴兵適格者は八・六%にすぎず、八九・七%が免役者であった。免役者の中では嗣子(しし)が最も多く、全体の四八・三%、免役者の五三・八%を占めた。定尺未満とは身長五尺一寸(一五四・五センチ)未満の者のことで、免役の条件になっていたが、一二年の改正で廃止された。適格者五人のうち、七年四月に常備兵として入営した者はおらず、新堂村の根木種吉が補充歩兵に採用されただけであった。ほかの四人は、検査に合格しなかったか、選洩れになったものと思われる。

表8 徴兵適齢者

 明治一三年、五小区の適格者は一〇・一%で、七年の二十七区と大差がなかった。免役者では、戸主が多くなり嗣子の比率が低下している。しかし、嗣子のうち半数の二二人が養子で占められており、独子嗣子や五〇歳以上の戸主の嗣子を除いた一二年改正徴兵令の二九条に該当するものに限れば、二〇人で六九・〇%に達する。このことは、養子縁組が徴兵逃れの中心になっていたことをうかがわせる。一一年七月、新堂村の某が、子息を富田林村在住の定吉方に同居している豊吉のところに入籍する手続を取ろうとした。富田林村では、この豊吉は厄介(食客)にすぎず戸主ではないので、入籍して免役者名簿に加えることはできないという意見もあり混乱した。しかし、豊吉が以前に分家を相続していたということになって戸主と認められ、入籍して免役者名簿に加えられることになった(富田林杉本家文書「日新誌」)。このように厄介同然の者とでも養子縁組して、徴兵を逃れようとしたのである。また、毛人谷(えびたに)村は、六年四月の「徴兵人取調書」(新堂平井家文書)に「廿才之もの嘉永六丑年七月八月出生之もの弐人御座候得共、壱人ハ長男相続人、壱人ハ次男ニ御座候得共、兄分家仕候ニ付当時相続人ニ御座候」と述べており、分家も徴兵逃れの手段であった。

写真23 明治6年「徴兵人取調書」(平井家文書)

 一二年の徴兵令の改正は、免役規程を厳しくするものであり、改正徴兵令発布以後に生じた免役条件は認めない方針であった(『堺県法令集』三)。新しい様式による調書の作成、戸籍との照合で、戸長の杉本藤平は年末まで多忙を極めたが、養子・分家・代人料など相談も多く、「実子故ニ迷ふ親心、尤とも不存ル、去レ共日々同様之事申来ルニ困ル」と音をあげながらも、「如何シテも御成規枉(まげ)ル事ハ成らん」と説得に努めなければならなかった。一二月一五・一六日、徴兵事務官の調査が行われたが、第四・五・六小区では事務が遅延していたようである。大阪鎮台では歩兵が不足しており、輜重兵(しちょうへい)の中から歩兵に組み入れることになった。そのため、一三年六月六日に大和桜井(現奈良県桜井市)で行われた抽選会の結果は仮のものとし、後日計算の上正式に決定することになった。一六年の徴兵令の改正は、さらに免役規程を厳しくするものであった。これに対応して、若年で長男や養嗣子に代替りしたり分家する者が増えた。大阪府では、一七年一月、兵事課員を郡役所に派遣し、各村の戸籍簿を取り寄せて調査をしており、「人心恐々騒敷(さわがしき)事」であった(以上「日新誌」)。

 一一年八月二六日、富田林村の一〇年徴兵が病死した。即日、大阪鎮台の第一大隊第一中隊曹長からは区長・戸長あてに次のような通知があった(「日新誌」)。

右去八月十九日来脚気症ニ罹(かか)リ入院治療罷在候処、該症増悪施治無効、終(つい)ニ本日午後一時三十分病院ニ於テ死去致候ニ付而者本人屍引請方之義、親族之随意ニ任セ候間、何分之義明二十七日午前九時限可申出、尚オ当隊中ニ而モ埋葬取計方ニ都合有之候得者、急度(きつと)無遅滞可申出旨、本人親族之者ヘ御通報有之度、此段及御依頼候也

 遺骸を引き取るか、真田山の陸軍墓地に埋葬するかは遺族の意向によることになっていたのである。遺族は、急ぎ人力車二挺を用意して早朝三時に出発し、遺骸を引き取り、親族と連署し副戸長・副区長の奥印を得て次のような願書を鎮台に提出した(同)。

私二男辰次郎義、昨十年六月十五日、御台ヘ常備軍トシテ入営罷在候処、脚気症ニ罹リ本月十九日入院療養之処、昨廿六日該院ニ於テ死去之趣御通達ニ相成候、就而者実家ニ於テ葬祭仕度候間、死骸御下ヶ渡被下度、此段奉願候、已上

 実家で葬儀が行われたので、この徴兵の墓は真田山には存在しない。一か月ほどして、鎮台兵と称する男が富田林村の事務所を訪れ、この徴兵に五円七六銭の貸金があるとして返済を求めた。男は、浅黄の番号の付いた病院の着衣を付け、徴兵が属していた第一大隊一中隊の伍長名の書類を所持していたが、言動に不審な点があり、用心しているとそのまま立ち去った。鎮台や堺県からは、鎮台兵と偽り金銭を詐取する者があるので注意するようにという通達も出されていたようである(「日新誌」)。