明治七年(一八七四)五月、台湾出兵に踏み切ると、政府は、八年から実施することになっていた仙台・熊本・広島の三鎮台管下の徴兵令による徴兵を、五月から八月にかけて繰上げ実施することを布達し、八月二日には、この年の補充兵をすべて入営させることにした(『法令全書』)。廿山村の中尾浅吉については、次のような五小区二番組の請書が提出されている(富田林市所蔵旧鳴川家文書)。新堂村の根木種吉も、同様にして入営したものと思われる。
御請書
河内国第一大区五小区
二番組廿山村
中尾久馬三三男<ママ>ママ>
中尾浅吉
右之者義、去ル四月中堺妙国寺ニ於御検査済之上補充徴兵奉請罷在候処、来ル九月一日入営可仕旨御達しニ相成承知奉畏、日限無相違差出し可申候、依テ御請書如件
右浅吉兄<ママ>ママ>
中尾久馬三 印
副戸長
尾崎喜十郎 印
戸長
浅川八郎 印
明治七年第八月廿三日
堺県令税所篤(さいしよあつし)殿
八月七日、陸軍省は、歩兵一大隊の定員六四〇人を臨時に七六八人に増員するため、各鎮台に将兵志願者を至急召集するように達するとともに(『法令全書』)、府県に対し「管下四民之内志願之者、別紙概則ニ照準シ、当八月限リ取調置、所管鎮台ヨリ掛合次第鎮台或ハ営所ヘ可差出」(同)と布達した。八月二四日、河内国第一大区五小区では、区長・副区長が表9に掲げる応募者の名を列挙し、「右之者共、今般御達ニ相成候鎮台ニ於為補闕奉仕致度志願届出候ニ付、此段及進達候也」(富田林市所蔵旧鳴川家文書「五少区壮兵進達書」)と堺県令に進達している。
番組 | 村 | 壮兵氏名 | 生年月日 | 年齢 | 戸主 | 続柄 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 錦郡 | 松山久吉 | 弘化4.2.16 | 27歳7か月 | 松山恒蔵 | 次男 |
2 | 廿山 | 左近善造 | 嘉永6.8.15 | 23歳 | 左近平三郎 | 次男 |
3 | 彼方 | 川口市太郎 | 安政2.2.15 | 19歳8か月 | 川口音吉 | 長男 |
4 | 市村新田 | 久保松之介 | 天保13.3.2 | 32歳5か月 | 久保松之介 | 本人 |
5 | 長野 | 北野常吉 | 嘉永2.6.15 | 25歳3か月 | 北野徳平亡三男 | 本人 |
5 | 古野 | 山脇刀松 | 嘉永1.9.5 | 26歳 | 山脇刀松 | 本人 |
6 | 小山田 | 角與吉 | 嘉永2.7.29 | 26歳1か月 | 角利平 | 長男 |
7 | 日野 | 北岸松 | 嘉永1― | 24歳5か月 | 北岸松 | 本人 |
8 | 上田 | 谷川仙吉 | 弘化4.3.23 | 27歳6か月 | 谷川寅吉 | 次男 |
9 | 清水 | 西文吉 | 安政2.10.23 | 19歳11か月 | 西佐吉 | 次男 |
注)富田林市所蔵旧鳴川家文書「五小区壮兵進達書」より作成。
台湾出兵は、日清戦争に発展する可能性があり、国内の政治経済危機を招く恐れがあった。前年、内地優先を唱えて征韓論に反対した大久保利通は苦境に立ち、自ら北京に赴いて清国との交渉に当たり、一〇月三一日、日清互換条約の締結に成功した。富田林にも、一二月四日午後八時ごろ、「支那和解奉祝賀御布告」がもたらされた。そこで六・七両日を休業とし、山車を牽(ひ)き出し、国旗を建てて賑々しく祝賀を行った。危機を乗り切った大久保は、八年二月、旧友である堺県令税所篤を訪れ、しばし英気を養った。二月六日、大久保・税所・五代才助(友厚)ら一行七人が富田林を訪れて杉山邸で早い昼食を摂り、千早城趾の見学に赴いた。その日は中村(現河南町)の長沢邸に泊まり、七日は水分村(現千早赤阪村)に赴き、寒風の中、金剛葛城山麓で狩猟を楽しんだ。一行は猟師を伴っており、富田林に着くまでにも小鳥一七羽を射止めていたが、七日は獲物がなく、八日、再び杉山邸に立ち寄り囲碁を楽しんだ。一行が出発した後、千早村から牡鹿一頭が到来したので、ただちに古市(ふるいち)(現羽曳野市)まで持参した。大久保は、大阪の宿舎まで運ばせ、東京への土産にしたようである(富田林杉本家文書「日新誌」)。