西南戦争の勃発を前に京都に行幸(ぎょうこう)した天皇は、明治一〇年(一八七七)二月七日、畿内巡幸の途に就き、一一日、神武天皇畝傍山東北陵(うねびのやまうしとらのすみのみささぎ)(奈良県橿原市)に参拝して、一二日道明寺(藤井寺市)に入った。富田林周辺の区戸長は、その応接に多忙を極めた。富田林村の杉本と杉田も一〇日早朝から小雨の中、悪路に悩まされながら竹之内街道を越えて今井(現奈良県橿原市)に至り、その夜は「油留方ハ区戸長の宿ニて交(かわ)り/\出勤、徹夜也」という状況であった。一二日は、天皇の畝傍参拝を送迎した後、道明寺に駆けつけて行在所(あんざいしょ)の整備に当たった(富田林杉本家文書「日新誌」)。一三日、道明寺を出発した天皇は、島泉村(現羽曳野市)の雄略天皇陵に参拝して堺に至り、堺県庁で鹿児島の情勢について上奏を受けた。一四日、鹿児島県士族一万三〇〇〇人余が西郷隆盛を擁して兵を挙げたが、危機感を抱いていた政府では、京都滞在中の陸軍卿山県有朋が、すでに一二日に大阪に司令部を置いて対処することを上奏し、近衛歩兵一連隊、東京鎮台歩兵一大隊、同輜重兵一小隊・同騎兵一分隊、大阪鎮台歩兵一大隊、同山砲兵一大隊の出動を命じた。岩倉具視(いわくらともみ)も、一〇日、警視局巡査を熊本・長崎・佐賀・福岡に派遣することを命じている。天皇は、京都還幸後の一九日、鹿児島県暴徒追討令と東京還幸の延期を布告し、征討に関する事務は京都行在所で行うことになった。その日、征討総督本営を大阪に設置して有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督に任命し、山県有朋と海軍大輔川村純義を征討参軍に任命した。二四日、征討総督が進発すると、大阪の本営跡に参謀部を置き、神戸に臨時海軍事務局を置いて征討の事務を取り扱い、内閣出張所も大阪に置かれ、木戸孝允や大久保利通・伊藤博文らが京都・大阪を往来して征討事務を処理することになった。
ところで、河内国第一大区二小区(丹北・志紀・丹南・古市・石川郡)では行幸入費が三八六九円余に達し、関係者は金策に苦労するが、「当年薩ノ一件ニ付諸国商売不振也」という状況で、「出納役衆も小前の催促ニ被困入、何分何と成トシテ官金ヲ借ル積スル」ことになった。四月一三日、道明寺宿泊・島泉小休の費用として官金一〇〇〇円を借用するため、「追而賦課之方法御決定御達之上受取次第、急度返上納可仕候」と記された証書に区戸長の連判を集めているが、宛名は記されておらず、実際に借用したのか不明である(以上「日新誌」)。六月末か七月初めに行幸費下渡しの願書を堺県に提出したようであるが(富田林杉本家文書「日々新」)、七月一八日、堺県・河内国・小区が三分の一ずつ負担するという回答があった。二小区役員は合議の上、県費負担以外を河内国全体に賦課する願書を郵送した。八月二一日、この要求が認められ、行幸費一件は落着した(同)。
二月一九日、征討総督本営が設置されると、先に動員した諸軍をもって第一・第二旅団を編制した。これらの旅団は、歩兵だけでなく砲兵・工兵なども含む混成旅団で、しかも鎮台単位でなく各鎮台の兵を混合して編制された。その後編制された旅団も同様で、大阪鎮台の歩兵は各旅団に分属することになった。西南戦争最大の激戦である田原坂(たばるざか)(現熊本県植木町)の戦いは、三月四日に始まった。第一旅団・第二旅団もこれに加わったが、八聯隊は田原坂の南方、二俣の谷筋を進んだ。三月六日、薩摩軍の砦を奪って気勢が上がり、進撃したところ薩摩軍抜刀隊の奇襲を受け多くの犠牲を出した。戦線はその後も膠着(こうちゃく)状態が続いたが、一四日、警視隊の編成した抜刀隊が二俣口の先鋒として進発し、八聯隊は、その左右を進み援護射撃を行った。この戦いは激戦となり双方に多くの犠牲者を出した。
二小区・三小区でも、それぞれ戦死者が出たが、二小区では一一年二月一日に招魂祭を施行することになった。それに先だって大和畝傍山で招魂祭を挙行しようという計画があり、二小区の村々にも募金に訪れた。二小区では、他国で祭るより区内で祭った方がよいということになり、一一年一月九日、初会議の席で提案がなされた。区内一戸当り一銭五厘、区戸長・総代は月給の一〇分の一を寄付し、総額一〇〇円程度で誉田(こんだ)社と真蓮寺(ともに羽曳野市)で神式・仏式の祭礼を行うが、神饌は少額にして遺族に料物を贈ろうというものである。遺族の中には困窮者もあり、救助のためであった。寄付は強請せず、任意としたので七五円余になったが、招魂祭は、予定どおり二月一日に実施された。区戸長は礼服、総代は羽織袴で列席し、堺県官二人も列席した。午前八時半から禅宗、九時から大念仏宗、九時三〇分から真言宗、一〇時から浄土宗、一〇時三〇分と一一時から真宗の読経・唱名があり、正午から誉田社で神官五人による祭礼が行われ、遺族に神饌料として戦死者五円、戦病死者二円五〇銭が贈られ、午後は奉納相撲が行われた(以上「日々新」)。
これ以後、河内の各地で招魂祭が行われることになる。三小区では三月七日に今井村(現美原町)の河原に祭壇を築いて挙行された。二小区同様、遺族、区の役人、県官などが参列し、神官五人による祭典が終わると、法雲寺方丈で会食し、相撲や俄(にわか)、花火などが行われた(「日々新」)。一小区では、二人の戦死者があったが、三月の末ごろに招魂祭が行われた。その詳細は不明であるが、あらかじめ寄付金が集められ戦死者の遺族に一五円ずつの弔慰金が贈られた(松原市長谷川正禮家文書)。
一〇年三月二〇日、兵力増強の必要に迫られた陸軍は、熊本鎮台管下を除く府県に対し、免役になった壮兵の召集を通達した(『法令全書』)。堺県も四月八日、士族平民の別なく「十七歳以上四十歳迄ノ者ニ而、従前軍役ニ服セシ者」の調査を布達した(『堺県法令集』三)。同じ三月、巡査による軍隊が組織され、次第に増強されて新選旅団として活躍した。一〇月四日、堺県は陸軍省に「明十一年徴兵適齢ノ者、志願に依テ警視局巡査召募ニ応シ、既ニ新撰旅団ヘ編入相成候分ハ免役簿ニ記載候テ可然哉(しかるべきや)」と問い合わせており(『陸軍省日誌』一)、堺県でも召募が行われていた。その後、警察力の弱体化を防ぐために、非常巡査の募集が行われた。五月二六日、内務卿大久保利通は、堺県に対し「其県下ニ於テ、巡査八百名至急可致招募」と通達した(『堺県法令集』三)。召募の対象は、一八歳以上四〇歳以下の「強壮忍耐」の者で、通常巡査のような試験は実施しない。応募者は、堺で一、二か月の操練を実施し、習熟の上帰村させる事になっていた。堺県は二八日、政府の布達に添えて、「招募ノ為メ官員出張為致可申之処、手廻リ兼候条、各方ヨリ父兄等ヘ懇々説諭行届候様尽力可有之事」(同)と布達したが、「巡査志願者八百名召集ニ付、河内国ハ頓と志願者無之」(「日新誌」)という状況であった。
そこで、小区ごとに一五人の割当てがなされたらしく、二小区では、区長が総代を召集して相談している。この申合せでは、被差別部落出身者「新民」を除くことになっていたようであるが、異議が出たので一二日に取り消している。一三日に二〇人の志願者が集められているが、二小区は一〇の組合村で構成されており、各組に二人ずつ割り当てたのであろう。人選の上、一四人を選んで堺まで引率しているが、その後も出願者からの苦情が絶えなかった(「日新誌」)。第五小区では、六月一三日付で副区長・戸長から知事にあてた「巡査志願之者書上」(富田林市所蔵旧鳴川家文書)が作成され、志願者一五人が列挙されている。ところが、それとは別に一二日から一六日にかけて、個々の志願者から知事にあてた願書一三通と「石仏村、新町村、片添村三ヶ村分巡査召募鬮(くじ)当相成候ニ付右段御届申上候」(同)という区戸長あての届書一通が残されている。願書の氏名には一番から二〇番までの補欠番号が付されており、一・九・一〇・一二・一四・一五・一八が欠番になっている。この一四人中、「巡査志願之者書上」と重複するのは、届書を出した者と補欠番号二番だけである。二番には「壱番抽籤不定ニ付六月十四日補欠トシテ入隊」と付記されている。この間の事情は明らかでないが、村組に人数を割当て抽選が行われたが、順調にはかどらなかったのであろう。六小区でも、抽選が行われたようである(「日新誌」)。このようにして送り出された応募巡査には、辛未徴兵同様に村方から金銭が支給された可能性がある。六月一八日、堺県は、次のような口達をしている(『堺県法令集』三)。
今般応募巡査致入営、以来帰村致、村惣代又ハ事務所等ヘ取掛リ、金子借用等申出候ハヽ、決而取敢不申様可相達段、警保課ヨリ御達有之候間、此段及御通達候也