明治一二年(一八七九)三月、大阪江戸堀で愛国社第二回大会が開かれ、各地の民権結社の代表が集った。民権運動の機運の盛上がりに、河内・和泉の名望家は関心と不安を抱いた。河内国第一大区二小区一〇番組の戸長杉本藤平は、九月四日の日記に次のように記している(富田林杉本家文書「日新誌」)。
大坂愛国社ハ九月初旬ニ大会議を開クと、又高知の立志社の如キ我国の虚無党(ニヒリスト)とも歟(か)此比(ごろ)泉州地・河内地ニ薬売又菓物(くだもの)売にて羽織袴ヲハキ在々売歩と、如何成事ヲスルヤ、諸国探揁(偵)ト云モノカ、世人の評高シ
国会開設運動が高まる一三年になると、事態は現実的になる。一三年四月三日、杉本は商用で出掛けた途上、若江郡西郡村(現八尾市)の演説会を聴きに行っている。もっとも、杉本は民権運動に好感を持っておらず、その感想は、「政府ヤ参議及県官巡査ノ悪口云ヘトモ皆外国西洋ニて間々有之、日本 天皇ノ陛下ニハ決而無之と申逃ル、扨々(さてさて)士族ノ政府盛ンナルソネムコトト存ル」というもので、「甚不都合ト案ス」と嘆いている(「日新誌」)。一四年三月、杉本は選挙に敗れ、戸長の職を民権派の田中知三郎に譲っているが、そのころになると、自由懇親会・演説会が南河内でも開かれるようになる。一四年九月四日、錦部郡古野村(現河内長野市)の極楽寺で自由大懇親会が開かれた(『大阪日報』明治14・9・6)。発起人は、天見村(現河内長野市)相宅正一郎・長野村(現河内長野市)西條與三郎ほか一一人で、地元から一五〇人余が参加し、和歌山県会議員兒玉伸児・同稲木保之助、大阪府会議員溝端佐太郎、堺の玉置格・北村左吉ら、大阪日報の善積順蔵・沢辺正修も出席して、演説・宴会が行われ今後の活動を誓って盛り上がった。九月九日から一三日にかけての『大阪日報』には、一六日に富田林で石川・錦部両郡の自由懇親会を開催する旨の広告が掲載されるが、一七日に河南七郡の自由懇親会を開く計画が起こり、一旦延期されたようである。ところが、河南七郡の自由懇親会が一〇月二日に延期されたこともあって、一八日、急遽開催されることになった。会場は富田林御坊であった(「日新誌」)。『大阪日報』(明治14・9・21)は、次のように伝えている。
兼て広告もありし河内国石川郡自由懇親会ハ、南河七郡合併の会を開かん為め<ママ>延日なり居りしが、先づ一郡ハ一郡の団結を固ふすべしとの論起り、俄かに開会と決し、去る十八日同郡富田林村に於て第一自由懇親会を開きたり、固(もと)より俄かのことなれバ同志の来会も定めて少数ならんと思ひの外、同郡中より会する者無慮百五十余名の多きに至り、堺区より瀬川・玉置・北村・篠原の諸氏、大坂よりハ城山氏及本社善積等が参会せられたり、扨て会員それ/\席に着き酒稍酣(ややたけなわ)ならんとする時、会主(首)総代勝山孝三氏は起て開会の旨趣を演舌し、会則を朗読せらる、尋て各員の演説あり、祝文あり、頗る盛会なりし、本会の発起者ハ同郡同村佐藤敬治郎・田中知三郎・青谷亀三、同大伴村勝山孝三、同甘南備(かんなび)村松尾翠、同三(二)河原辺村杉谷太郎、同中村松田宇太郎、同下河内村城戸佐平治、神山村高橋太郎の諸氏なりといふママ>
発起人の中で一五年の立憲政党名簿(明治史料第一集『自由党員名簿』明治史研究連絡会)に名前が出ているのは、二河原辺村の杉谷太郎だけであるが、一四年一〇月一五日付の『日本立憲政党新聞』に次のような記事がある。
河内国石川・錦部二郡の立憲政党員、松尾・青谷・田中・佐藤・杉谷及び勝山等の有志諸氏発起となり、去る七日八日の両日を以て富田林村と甘南備村の二ヶ所に政党演説会を催ほさるゝよしにて、大坂よりも一二の弁士を聘されたれば(中略)、沢辺正修氏之に代り赴かる
立憲政党は、一四年一一月一日、近畿自由党の名称を変更して成立した政党である。『大阪日報』を買収して機関紙とし、一五年二月一日から『日本立憲政党新聞』として刊行している。中心メンバーは、草間時福・古沢滋・田口謙吉・小嶋忠里・土居通預・善積順蔵らであるが、南河内の名望家たちも多く名を連ねていた。記事では松尾・青谷・田中・佐藤も立憲政党員とされている。立憲政党の後身とみなされる大阪月曜会の二三年五月調査「会員名簿」には「石川郡富田林村大字富田林商青谷亀次」の名が見える(原田敬一「第一回総選挙前の名望家団体―『大阪月曜会』に関する新出史料と若干の考察―」『鷹陵史学』二五)。甘南備村の松尾翠は、下館藩領河内国石川・古市両郡二二か村の代官を勤めた旧家の当主で、士族に列せられていた(鈴木潔『楠氏と松尾』)。沢辺正修は、旧丹後宮津藩士で立憲政党の前身である近畿自由党の結成に尽力し、当時は、立憲政党幹事・日本立憲政党新聞会計監督であった(原田久美子「沢辺正修評伝」『京都府立総合資料館紀要』三)。
河南七郡自由大懇親会は、一四年一〇月二日に富田林御坊で開かれた。発起人は、東尾平太郎・西條與三郎らで小嶋忠里、瀬川正治、玉置格、桜井徳太郎、城山静一、古沢滋、善積順蔵らが出席し、なかなかの盛会であった(『大阪日報』明治14・10・4)。郡長は、この懇親会の開催を認めようとしなかったらしく、開会が延期されたのは、そのためであったと思われる。懇親会では郡長に対する批判も多く、そのことを知った郡長は、二、三日後に郡内の戸長を呼び集め、「二日富田林に於て開会したる彼自由党とやら云ふ者の懇親会」は、「多くハ堺の三百代言や貧乏書生が集合したる談論会にて」「彼徒(ともがら)ハ全く其名を懇親会に仮りて日頃の詐術を逞(たくましく)し己れが私利を営まんとする者に外ならず」「彼徒に誘惑せられぬ様又其旨をバ小前へも諭達して必ず心得違ひの無き様注意ありたし」と説諭している(『大阪日報』明治14・10・21)。
一五年一〇月七日の甘南備村の演説会は、堺から内村義城・原田藤三郎・橋本佐平が弁士として加わり、二〇〇余人の聴衆を集め「山間僻地には珍しき盛会」となり、その夜は揃って松尾家に宿泊して懇親会を開いている。翌日は、会場を富田林村字御坊町の劇場に移して開会されたが、勝山孝三が、その冒頭に開会の趣旨を演説している。会半ばにして、演説の内容が治安妨害に当たるとして解散を命じられたので、いったん解散して学術演説会を開催し、午後七時ごろ閉会した(『日本立憲政党新聞』明治15・10・15)。