地租改正の結果、河内国の地価は、田畑とも全国で最も高く算定された。和泉・摂津両国の地価もこれに次ぎ、大阪府全体としても、全国府県中の最高であった。増租となった地主は不満であったが、地租改正条例第八章によって五年ごとに修正されるというので、仕方なく了承したのである。ところが、明治一三年(一八八〇)に地価修正は一八年まで五か年延期されることになり、さらに一七年には、地租条例によって地価は修正されないまま固定されることになったため、地価の高い地域の地主の不満は強かった(本章第三節参照)。
長年戸長として行政能力を発揮した杉本藤平は、地租改正にも尽力し、九年の元旦、改正を賛美して次のような歌を詠んだ(富田林杉本家文書「日新誌」)。
明らかに治る御代のためしには貢の道も改(あらたま)り行く
平らかに貢の道の改る恵ミを仰くや四方の民草
杉本は、前述のように民権運動に批判的で、一四年九月一八日に富田林御坊で開かれた自由懇親会に際しても、次のような感想を述べている(同「日新誌」)。
本日当村御坊ニ而自由懇親会催ス、坂府ヨリ吉住順造(善積順蔵)・城山誠一郎(誠一)、其他篠原 外八名計来会、漸(ようやく)三名説よし、外ハ大概ナリ、財政困難と開拓使公共物関西貿易会社ヘ払下事件ヲ穴ニシテ皆囂々(ごうごう)トシャヘル、能ひ加減ナリ、正午開場、午後五時ニ終ル、只政府ヲ誹謗スルノミ、聞悪シ、此結果如何ナル歟、実ニ愚民ヲ煽動ス、竹槍席籏サスノ工夫歟、可忌々々、真ノ改コトハ何処ニ有歟
しかし、『日本立憲政党新聞』を閲読しており、一六年五月、新潟県下の地租軽減請願の記事を読み、すでに酒造税だけで一〇〇〇万円以上、ほかの物品税を合わせれば二〇〇〇万円以上になっており、物品税二〇〇万円以上になれば地租を低減するという地租改正条例の規程による減税を求めていることに注目し、「実正の説ナリ、後年如何、最早(もはや)明十七年ニ而一期、十八年ハ改正の年ニ当、如何御改正ナランカ」と述べている。地租改正の意義を認め協力した杉本も、一方的に地租額を強制されたことには批判的であったのである。西南戦争下の一〇年八月、杉本は、次のように官僚批判をしている(「日新誌」)。
全御改革未行届カラサル故カ国々ニ貧民多、其日々々活計不立者多、良民ハ日々ニ困迫シ、盗賊日ニ多シ、博奕等致ス者村毎ニ夥敷、小前過半皆不人情実ニ可恐事也、新聞ニも有通薩藩士族卒等、七、八分通日々活計立ナシ(中略)上官ノ官員奢移(侈)酷敷、良民日ニ困窮シ、噫々(ああ)如何成世の中欺、(中略)後年良正ノ官員ヲ待而已、当時ハ屈シテ分ヲ守ル外ナシ
維新改革に期待しながらも、地租改正・徴兵制などの負担を負い衰退していく地方の現状に対する苛立ちが、官僚批判となったのである。一三年、地方税規則の改正によって財政負担が大幅に地方に転嫁されると、多くの地方名望家が、次第に民権派に惹き付けられていく。地価修正運動に活躍する東尾平太郎や溝端佐太郎は、有力な民権派であった。