酒屋会議

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酒造税は、政府にとって重要な税源であった。明治一一年(一八七八)、清酒一石につき造石税一円を課したが、一三年には二円に引き上げた。そのため、酒造税額は、八年に約二五〇万円であったのが、一四年には約一〇〇〇万円に急増した。一四年五月、高知県の酒造業者は、減税を請願したが却下されたので、一〇月、自由党創立大会に出席する植木枝盛と相談して、全国の酒造業者に呼びかけることになった。植木は、大会に出席した島根県の小原鉄臣、福井県の安達又三郎ら数人と図り、一五年五月一日に大阪で全国の酒屋会議を開くことを決め、一四年一一月一日、檄文を配布した。一二月、政府は、みだりに檄文を配布し人心を煽動するものであるとして、植木以外の発起人五人を禁獄の刑に処した(岩波文庫版『自由党史』中)。

 一二月一六日、河内国錦部・石川・古市・丹南・丹北(たんぽく)・安宿部(あすかべ)・志紀・若江・大県九郡の酒造業者は、古市村扇屋に会合し、酒造税減額の請願をすることを協議した。二〇日には茨田(まった)・交野・讃良(ささら)の三郡を加え、一二郡の酒造業者が集まり、一五年一月一〇日に請願書を提出することを決め、委員を選出した。委員には、志紀郡林村(現藤井寺市)松田甚平・古市郡軽墓村(現羽曳野市)浅野誠太郎・石川郡富田林村杉山団郎・錦部郡長野村西條麟太郎が選ばれた(『日本立憲政党新聞』明治15・12・23)。請願書は、一五年四月一七日、河内国酒造営業人七〇名総代杉山団郎・浅野誠太郎・松田甚平・大堀伊十郎・林吉次郎の名で大阪府知事に提出された(同4・27)。その要旨は、一四年七月に施行された地方税営業税雑種税漁業税規則第一四条・第一五条によって営業所税が課せられたのは、造石税と重複し不当であるというものである。

 一五年四月、植木と安達の連名による「吾等共営業上ノ儀ニ付、日本全国同業諸君ト御懇話仕度、乃(すなわち)自五月一日於大坂全国酒造営業人会議致候間、全国ノ同業諸君御来会有之度候也」(同4・21)という広告が新聞に掲載された。警保局長清浦奎吾の指示を受けて大阪府は、四月二六日、会議を禁止した。翌日、植木が「酒屋会議ノ儀ハ大坂府知事ヨリ差止ラレタリ、然ルニ全国酒造営業人諸君ヘハ別ニ御談話申度事有之、何分ニモ一先御来坂被成下度候也」(同4・28)という広告を出したので、大阪府は植木を召喚して会議は勿論、召集をも禁止した。しかし、植木は三〇日、さらに広告を出して「此上ハ拙者ヨリ諸君ヲ招集セス、諸君自ラ来ル時ハ則乞フ面晤(めんご)セン」(同4・30)と呼びかけた。地元で拘束されて来阪できない者もあったが、二〇府県の酒造業者代表四十数人が集まった。集会を開くことができないので、五月四日の朝から淀川に船を浮かべ、船中で意見を交換した。さらに、九日、再び船に乗じて京都に上り、一〇日、祇園中村楼で集会を開き、「酒税減額請願書」を元老院に提出することを決めた(『自由党史』中)。この請願書には五十数人が署名しており、河内国では、錦部郡長野村西條麟之助・志紀郡林村松田甚平の名がみられる。

写真30 杜氏作業風景(葛原家所蔵)