堺県の郷学校

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郷学(ごうがく)とは主として江戸時代中期以降に開設された教育機関で、郷校、郷学所などといわれる。郷学の意味は郷(さと)に設けられた学校という意で、その特色や性格を一口で表現することは、難しい。その設立・維持主体を、政治権力との関連でみると、次の四つに該当するとされている。①藩校の分校的な性格を持ち、地方在住の藩士や家臣たち・家老の陪臣を教育することを目的としたもので、例えば、岡山藩の閑谷(しずたに)学校が有名である。②支配権力側が民衆教化を目的とし、村落支配者層の協力を得て設立したもの。③民衆の需要に基づき、民衆の有志が設立したもので、郷学の設立・維持主体が個人でなく、共同経営するものがあり、平野郷の含翠堂(がんすいどう)が著名である。④明治維新後に、町村単位でいわば公立として設置され、京都の番組小学校や愛知の義校などが有名で、ここで取り上げる堺県の郷学校もこれに該当する。成人教育でなく幼年者を対象とした初等教育機関であり、小学校教育の先駆的形態と考えてよい。

 堺県では県令の税所篤(さいしょあつし)が、明治四年(一八七一)三月、堺市中の天神社(菅原神社)に郷学校を設け、同年四月一日から開校した。経学・筆道・数学の三師を置き、士民童幼者に限らず有志の者の入学を許した。同月二日には河内国三ノ瀬村(現東大阪市)に小学校を置いて近郷の者の入学を勧奨し、両校とも学校における音信・贈答・謝礼などを厳禁した。翌五年一月堺郷学校は堺県学と改められ、皇漢洋の諸書を中心に地理・歴史・修身・算術などの普通学科を教え、英語学をも教授した。のち、六年八月、小学校教員養成のための河泉学校となり、さらに県の師範学校へと進展し堺県の最高学府となった。五年四月、堺県では私塾・寺子屋の廃止を命じ、市中の毎区に県学分校を設け、町々の幼少者は勿論、奉公人でも男女の区別なく入学勝手次第とし、五節句その他の時の謝礼は一切無用としている。

 堺県では五年二月、その管内を分区して河内国は二九区、和泉国は二五区に区分し、各区に一郷学校本校と数か所の出張所を設ける布達を出した。富田林市域でも堺県の指示で、二十七区郷学校、二十八区郷学校、二十九区郷学校および、二十五・二十六両区郷学校とその出張所(分校)が開設された。次にこれらの郷学校につき述べてみよう。