二十七区富田林郷学校

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明治五年(一八七二)八月、第二十七区副区長新堂村平井四郎次と同富田林村仲村徳平は、堺県庁あてに二十七区郷学校の「郷学開校御届書」(新堂平井家文書)を提出している。石川郡六か村富田林・新堂・毛人谷(えびたに)・中野・新家・喜志の各村を学区とするもので、郷学校本校は富田林御坊(興正寺)に置き、区内にも五か所にわたり出張所を置くものであった。表10がその届書で、出張所は富田林村妙慶寺、新堂村円光寺と光盛寺、喜志村明尊寺、新家村光円寺に置き、教員は本校教師に大松系斎を招き、出張所教員は久保利吉郎以下、寺子屋師匠を充てている。校舎として寺院の本堂などを使い、教師に寺子屋師匠を任じていることは、近世末期に発達した寺子屋の広汎な展開を前提に、郷学校の開校が可能であったことを示すものといってよい。郷学校開設にともなう一か年間の経費の総計は、表11のとおりである。一か年間四五〇円の総経費は、区内寄付金三〇〇円と区内高割・戸数割の集金で、賄う計画であったのである。

表10 河州27区郷学校開設計画(明治5年8月)
郷学校 生徒総数 教員 所在・寺子屋名称・科目
(女)
郷学校本校 24 大松系斎(平民) 50歳
 富田林村興正寺 (3)
郷学校出張所 138 久保利吉郎(平民) 50歳 富田林村 好文堂(読・算)
 富田林村妙慶寺 (46) 岸平七(平民) 43歳 富田林村(読・算)
郷学校出張所 56 樹林了現(僧侶) 50歳 新堂村(読・算)
 新堂村円光寺 (9)
郷学校出張所 42 盛祐徹 30歳
 新堂村光盛寺 (10) 中島健治(医) 32歳 新堂村(読・算)
郷学校出張所 139 副田智海(僧侶) 23歳 喜志村 光明堂(読・算)
 喜志村明尊寺 (53) 村上専庵(平民) 49歳 喜志村 九皐堂(読・算)
伊藤圭吾 55歳 喜志村
神谷九登 24歳 喜志村
郷学校出張所 30 大池利平(平民) 48歳 喜志村(読・算)
 新家村光円寺 (16)

注)新堂平井家文書「郷学開校御届書」・『市史』2より作成。

表11 河州27区郷学校経費計画
費目 内訳 金額
支出 円 か月 人
郷学校本校教師給料 5.0×12×1 60
講師(1か月6回)給料 1.5×12×1 18
出張所教師給料 2.5×12×10 300
諸塾借賃その他諸入用 72
総額(A) 450
収入 区内寄附金 300
区内高割・戸数割 150
総額(B) 450

注)新堂平井家文書「郷学開校御届書」より作成。

 教科課程は、出張所での習字則と本校での習学則とに分かれる。前者は、平仮名・片仮名・数量・人名・村名・国名・商売往来・諸職往来・万国往来・風俗往来・状文章・千字文から成り立っており、習字を中心として、日常使用の文章や一般的な当時の社会風習などを学習する。習学則は三つの等級に分かれ、表12にみられるように堺県の市郡制法から儒学の古典、さらに史書、漢籍全体に及んでおり、大ヶ塚郷学校修身館学則と比較すると、修身館本校教科目の「読書」と類似している。届書には、「一、六講習之節ハ出張所教師門人ヲ引連、郷学校江出頭致し講習ヲ可聞事、郷学校出張所とも一月ニ一、六ノ日休息、其日郷校ニテ講習有之」と規定され、分校の生徒も本校での漢籍の講義を聴講する事が述べられている(新堂平井家文書「郷学開校御届書」)。さらに分校の習字則の教科目は、寺子屋時代の教科目と類似性が多い。近隣の丹南郡半田村字浦ン田(現大阪狭山市)の寺子屋の教科目は、「いろは、金目、名頭、村名、国尽、商売往来、庭訓往来、諸文章、諸証文、実語童子教、四書五経」とみえているが(『大阪府教育百年史』二)、両者を比較すると、分校習字則には明治初期の文明開化世相を反映する万国往来や風俗往来が付加されているにすぎない。

表12 富田林郷学校教科目
課程 教科
習字則 平仮名、片仮名、数量、人名、村名
国名、商売往来、諸職往来、万国往来
風俗往来、状文章、千字文
習学則 3級 市郡制法、古道訓蒙頌、大統歌
大学、小学
2級 論語、孝経、五経、春秋左伝
国史略
1級 十八史略、日本外史、史記
漢書蒙求、詩文書

注)新堂平井家文書「郷学開校御届書」より作成。

 次に生徒学習心得書ともいうべき「塾中掲示規則七条」につき、その内容にふれておきたい。七か条の規則書の概略は左のとおりである(新堂平井家文書)。

(1)学問の目的は自己修行に励んで、倫理道徳を弁え、篤実の人柄を目ざすことである。

(2)一家の子弟は、修学した学問道徳で家業に専心するよう心がけよ。

(3)学問の肝要な点は、自分の身の分限を知ることである。非分不法の行為は禁止する。

(4)農事のひまによく学問に精励すること。文雅風流に流れ質素の風習を失うな。

(5)他人を批判せず、無益の雑談にふけらず、教師の教戒に違反しないこと。

(6)学業に毎日精励し旧習の偏見を捨て、時世の進展をよくみて、文明開化の進歩の域に達すること。

(7)塾中に三級の段階を設け、生徒の学業の勤惰で席次を上下させるので、各自、一層精励のこと。

 明治五年一一月の「郷学校規則」(新堂平井家文書)によると、以下のように「郷学開校御届書」と若干の変更がみられる。郷学校本校では漢学教師大松系斎のほか、漢学講師に旧狭山藩士族三好莞爾を招き月に六回出講させている。三好莞爾は「狭山藩御家中人名簿」によると、藩士御用人格一三人扶持であった、三好攸司の子息である(『狭山町史』二)。妙慶寺の幼学席(出張所)は本校に統合し、久保利吉郎と岸平七に習字算術教師として幼学席教育を担当させている。新堂村の二つの出張所は光盛寺・円光寺借用のまま合併し、教員は漢学教師中島健治、習字算術教師盛祐徹、同樹林了現が共通して担当した。喜志村・新家村の両村出張所は異動がない。生徒総数は男二九三人、女一二七人の計四二〇人で、「郷学開校御届書」よりも女子で若干の減少がみられる。経費は高一石につき永(えい)二〇〇文ずつ取り集めた一〇〇〇円を常備金としてその利息で運営することとし、不足は寄付金を充てることになっていた(新堂平井家文書「郷学校規則」)。支出は人件費として漢学教師月に五円、同講師一円二五銭、習字算術教師二円五〇銭、合計一か年三七五円で、そのほかの諸経費二五円を合わせて合計四〇〇円となる。これは「郷学開校御届書」の金額より五〇円少ない。出張所の一部統合や廃止などで経費の節減をはかったのであろう。

 なお興味をそそる一件として、当時の副区長たちが、教師の考えが文明開化に遅れぬようにと思ったのか、明治六年二月一三日から三月六日にかけて『新聞雑誌』六六~六七号および付録の計三冊と『日新真事誌』二〇九~二一三号を、郷学校本校・出張所教師たちに刻付けをもって廻覧し、三月二六日から四月一六日にかけては、『日新真事誌』二一五~二二四号を廻覧している。明治初頭で民衆の政治的啓蒙に大きく貢献をしたとされる新聞を、まだ寺子屋師匠の域を脱しなかった当時の郷学校教師たちに読ませた、副区長たちの高い識見が偲ばれる(新堂平井家文書)。

 明治五年八月から同六年三月までの二十七区郷学校本校の入費は五五円二厘であった。そのうち二二円二厘を富田林・毛人谷両村が負担し、残額三三円足らずを新堂・中野・喜志・新家四か村が高一〇〇石につき七二銭七厘余の割合で負担をした(表13)。

表13 河州27区郷学校本校経費・負担金
諸経費 事項 金額
円銭厘毛
学校世話方心付・校舎借用 47.84.5.2
日常事務諸経費
その他諸経費(89貫460文) 7.15.6.8
合計 55.00.2.0
村名 負担金額 残額
各村負担 円銭厘毛 円銭厘毛
新堂村 12.57.0.3 4.70.6.0
中野村 4.79.3.3 1.79.4.5
喜志村 13.29.1.1 4.97.5.8
新家村 2.34.3.5 0.87.7.3
富田林村 22.00.2.0
毛人谷村
負担金合計 55.00.0.2

注)新堂平井家文書「本校入費勘定帳」より作成。