市域の他の郷学校・分校

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河州二十八区の村落二七か村を学区とした大ヶ塚村郷学校修身館は、明治五年(一八七二)七月~八月ごろ開校したと推定される。顕証寺御坊を本校とし、分校が区内の各地に設けられた。大ヶ塚村(現河南町)は河南地域の名邑(めいゆう)で、顕証寺の寺内町としてにぎわい、近世に入り在郷町的性格を強め、商品流通の一中心地のみならず、芸能諸文化のセンターでもあった。市域の東板持・山中田(やまちゅうだ)・南大伴・北大伴・南別井・北別井の各村がその学区に入るが、その学則である「修身館学則」は国粋主義的な面が強く、特異なものである。河州二十九区郷学校は、石川郡中村(現河南町)以下二五か村の村落を学区として、本校を中村に置いた。富田林市域では、佐備・龍泉(りゅうせん)・甘南備(かんなび)の三か村がその学区に含まれた。分校は千早・中津原(ともに現千早赤阪村)・甘南備・佐備(ともに現富田林市)・平石・上河内(ともに現河南町)の六か村に設けられた。各分校にはそれぞれの通学圏の村々が指定されたが、山間部に位置し村落間の距離も大きいので、本校近辺の一一か村は一三歳以下の幼年者でも、本校の幼学席の課程で修学することを定めている。一三歳以上は本校へ通学することになり、各村から本校までの距離が記されている。そこには、南河内一帯の郷学校における、年齢の相違による上級の学校と下級の学校という二つの課程が共通してみられる(『千早赤阪村誌』資料編)。

 河州二十五・二十六両区の場合には、堺県の一区一郷学校ではなく、両区の共通の本校として一校が設けられた。本校は錦部郡古野村(現河内長野市)極楽寺の堂舎を借用し、河内長野市域から富田林市域にかけ、学区内九か村に分校が設けられた。本校教師として狭山在住の三好莞爾が招かれた。本校に併置された幼学席には、新家村浄念寺の舜乗が教師となり、漢学に精通していたが、筆道を教えた。分校では、錦郡村極楽寺は松浦源一が、錦郡新田神宮寺は奥井貞治が、彼方(おちかた)村西光寺は住職の晃山が教師となり、筆道を教えた。市域外では、鳩原(はとのはら)村会所、小山田村氏神拝殿、三日市村真教寺、小塩(おしお)村会所、天見村会所、清水村会所(いずれも現河内長野市)に分校が置かれ、教師は一人で筆道を教えた。教室に寺院や村会所を使用し、教員として寺子屋師匠たちが就任し、のちに何人かは小学校などの教員になっていることも、他区の事例と同様である(『大阪府教育百年史』二、『河内長野市史』八)。本校生徒を対象とした塾則は天下の政治への討議・議論を禁止し、幼学席への規則は生活指導の重視が、強くみられる。