小学校の建営

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政府は明治五年(一八七二)八月、「学制」を頒布し、小学校を中心に、全国に義務教育を実施することにした。堺県は明治六年二月には郷学校本校五四校、分校一九四校を設置していたが、これを受けて六年五月、郷学校をすべて廃止することを下達し、新しく建営する小学校への就学を強く勧奨している(福島雅藏「堺県学区取締山中義治の学事日誌(上)」『堺研究』二四)。明治六年四月、「学制御頒布ニ付、当管内三中学・七百三十三小学可設立積之所、当今市在疲弊之折柄、一時造立難相成ニ付、是迄之一区一校之上江更ニ五十五校ヲ増造」と布達して増校の計画を示し、さらに五月、これを再布達するとともに、増校数を六四と改めた(『堺県法令集』二)。この計画は七月には実現して、小学校数は一一八校になっていたが、さらに五〇校増校の計画を立てている(明治六年七月堺県布達)。河内国八上(やかみ)郡金田村小学(現堺市)を河州第一番小学とし、七三の小学校を開校することになった。当市域では表14に示すように、番組の小学と所属の村落が決められた(『大阪府教育百年史』二)。

表14 市域の小学と村落(明治6年5月現在)
小学 所属村落
丹南 池尻村5番小学 池尻、東野、新宿(池尻村のうち)、加太新田、半田、岩室、今熊
錦部 市村新田6番小学 伏山新田、茱萸木新田 西山新田、市、小山田 原、大野新田、市村新田 錦郡新田
古野村7番小学 西代、上原、野、惣作、喜多 河合寺、向野、長野、古野 
錦郡村13番小学 錦郡、横山、廿山、甲田 彼方、伏見堂、新家
石川 吉年村12番小学 吉年、中津原、甘南備、東阪小吹、千早
佐備村14番小学 佐備、龍泉、西板持 東板持
大ケ塚村18番小学 大ケ塚、南大伴、北大伴 山城、南別井、北別井 一須賀、東山
富田林村21番小学 富田林、毛人谷、新堂 山中田
喜志村22番小学 喜志、中野、広瀬、北新家 南新家、東坂田、西坂田

注1)『大阪府教育百年史』2より作成。
 2)ゴシック体は富田林市域の村。

 堺県は六年四月学区取締を任命した。その人数は堺県全体で一七人で、同年五月、その分担区域が定められた。学区取締には地域の資産家・名望家層が任命され、市域では富田林村杉山長一郎が河州六~十番と十三・二十一・二十二番小学を、石川郡山田村田中和一郎が、河州十一・十二番と十四~十九番小学を受け持った。明治八年一月「学区取締心得」「同事務章程」が制定され、学区取締は所在の学校を巡視し、教員を励まし生徒を鼓舞し、諸般の学務を担当するものとされ、九年八月「学区取締職務心得」によってさらに細かく規定された。それ以外に小学周旋方があり、八年四月に小学・教会世話掛となり、一〇年一月には小学世話掛と変更された。これは学区取締の下でその補佐役を勤め、校内の雑務を処理するほか、就学督責にあたり、学校維持や大小試業の時の立会いなど、実務的な方面を担当した(『大阪府教育百年史』一・二)。

写真31 明治8年 21番小学下等小学卒業証書 (杉田家文書)