教科内容・就学不就学

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「学制」による小学校は、当初は下等小学が中心で、そのカリキュラムも、郷学校の教科内容と大同小異であった。教科書も儒学関係の古典類に則したものと、西洋の立身出世主義や文明開化の風潮による外国の歴史や地理の本、また物理化学などの理科的な方面の翻訳ものがあり、江戸時代からの「読み・書き・算盤」の系統と、西洋近代人権思想を盛りこんだ書籍や翻訳ものが中心であった。「小学教則」に示された文部省の教科書類として、「究理図解」「智恵之環」「地学事始」「天変地異」「世界国尽」や、堺県の「市郡制法」「学問乃心得」のほか、「童蒙必読」「手習之文」「日記故事」などが、各小学校に揃えられていた。ほかに算盤・石盤・硯石などの教具や、机・椅子などの校具類が、教育上必要であったことは、いうまでもない。

写真33 『学問乃心得』(平井家所蔵)

 小学校は上等と下等で各々四か年ずつ通算八か年であるが、在学生は下等小学のみで、しかも数か年で終わる傾向であった。就学率は堺県全体で明治六年(一八七三)三六・八%、同七年四三・五%、同八年四四・一%、同九年四七・六%と漸次向上するが、男子が五九・三%から六一・三%に対して、女子が二四・二%から三五・五%と推移し、就学率が低かった(『文部省年報』一~四)。堺県では明治八年四月、学区取締が中心となり各村ごとに就学督責に乗り出し、翌九年三月には県下各小学校の不就学生徒を調査し、学区取締を通じて各区戸長に報告させている(『大阪府教育百年史』二)。不就学については、学校が手間暇がかかる割には実用的ではなく、修学費なども寺子屋に比して割高であり、日常生活における効用面でも寺子屋に比べてあまり役に立たないことが、その原因とされている。石川郡南大伴村には九年三月の「学齢人口取調書」(南大伴勝山家文書)がある。戸数五三、人口二三六人(男一三三、女一〇三)の小規模な村落である。学齢人口は四〇人(男二八、女一二)で、就学者は男二三、女五、不就学は男五(一八%)、女七(五八%)を数え、女子に不就学が多い。不就学の原因は、男女とも三人が奉公稼ぎで、そのほか男一人、女三人は家庭貧困、男女とも各一人が病身であった。

 次に堺県では、八年八月、堺県師範学校の名において改正「堺県下等小学教則」が制定された。毎級六か月で進級するので、下等小学八級から一級までを四か年で修了するが、生徒の学業状況いかんで期間の短縮を認めている。一日の修学時間も五時間とし、教科目は読物、算術、習字、書取、問答、復読、体操の七科目で、五級以上は書取課を置かず、作文で代行できるとした(福島雅藏『近代的「学校」の誕生―旧堺県郷学校のことなど―』)。一一年一月、堺県師範学校の名において新しく「堺県下等小学教則」と「堺県上等小学教則」が定められ、県学務課から配布された。それは修業年限の短縮と等級の簡素化を意図したもので、「学制」の八か年の課程を下等小学二年半、上等小学三年の計五か年半と改めた。下等小学は四級制とし、最下級の四級のみが一か年で、あとは半か年ずつの計二年半とし、上等小学は六級制で毎級半か年ずつの計三年とするものであった(『大阪府教育百年史』一・二)。これは、小学教則八年制を修正して、下等小学二年半・上等小学三年の五か年半という制度を認める独自の動きで、「学制」に対する堺県の新しい対応といえよう。