「学制」では「生徒ハ諸学科ニ於テ必ス其等級ヲ踏マシムルコトヲ要ス、故ニ一級毎ニ必ス試験アリ」とあり、また「生徒学等ヲ終ル時ハ大試験アリ」と規定されている。堺県の試験制度は、明治八年(一八七五)五月・六月、学務課からの通達では、毎級試験(小試験で一年に二回、六・一二月か四・一〇月)があり、一小区ごとに小区の小学八~一〇校余の生徒を三、四か所に集めて行い、受持教員、隣区小学教員二~三人の立会いで、実施したようである。「日新誌」(富田林杉本家文書)にも、小学校の生徒集合試験の記事がみえる。堺県では、一一年一月の小学教則の改正にともない五月には「小学試業規則」も改正され、一層整備された内容となった。以下、略述すると次のとおりである。
試業は例月試業(毎月末受持教員が実施、主座教員の点検を受ける)、定期試業(毎級試験、従来の小試業に相当、年二回実施)、大試業(全科卒業試験、一級卒業試験を経て各級全体にわたる試問に合格しないと、小学全科卒業資格を得ることが困難)、臨時試業(成績優秀のもの、病気・事故などの欠試者対象)に分かれる。試業願いを各校から学区取締を経て学務課へ提出、許可の必要がある。試験場は一小区で二~五校くらい、期間は三~四日ほどで、試業は受持教員が担当し集合試験の時は上等教員が関係する。試業掛および隣区の五級以上の教員一~二人、区・戸長、学区取締、小学世話掛が立ち会った。試業問題は別に定められた「問数表」に従って受持教員が協議の上作成し、学区取締を経て学務課に提出した。採点は減点法で、採点基準は、すべて、下等小学毎級試験のとおりで、失点が一定の基準以下は落第のケースが多かった。受験生個別成績および及落の別を記した一覧表を作成し、学区取締を経て学務課へ提出する。落第者は受験者の二五%前後で、小学校を卒業することの困難性を示している。なお、定期試業・大試業の皆答者は賞与を与えられた。具体的な事例を述べよう。
明治一一年一二月二四日に、富田林小学で下等小学全科卒業集合試験が実施され、試験掛として堺県師範学校三等訓導原田卯七郎、二小区学区取締松田又造、立会人として大ヶ塚小学二級訓導補永戸為義と受持教員新堂小学二級訓導補阪上智海ほか二人が出席した。受験生は富田林校四人と新堂校四人、新家校二人の合計一〇人で、全員男子であった。そのうち富田林校一人と新家校二人が落第で、残る七人は合格であった。試験担当教員の一人阪上智海は、判定基準を次のように報告している(新堂平井家文書「河内国第一大区二小区富田林小学ニ於テ全科卒業集合試検失点表」)。
読物ハ第四級ヨリ壱級迠惣計十分ノ一即チ廿九失、算術問答書取ハ五分ノ一即チ算術二十失、問答八失、書取十二失以内ヲ取ル、作文習字ハ甲、乙、丙ヲ以テ判シ、丁ナルモノヲ落第トス、若(も)シ一科落第スルモノハ其科ノミ習熟セシメ、二科落第ノ者ハ全科ノ習熟ヲ待テ他日試業ヲ経テ証書ヲ与フルヲ法トス
さらに他の一つの事例を挙げておきたい。明治一二年一二月六日に、学区取締松田又造は新堂小学ほか四校の臨時試験を、新堂小学で実施したい旨、堺県学務課に願い出て許可され、そのうち上等科生の試験は一二月一五日から二四日まで行われた(新堂平井家文書「試業場開設之義ニ付上申」)。受験生は二〇人でその内訳は、六級生一二人、五級生二人、四級生四人、三級生二人であり、試業掛として京極昇三郎が出張した。「失点表」による試験結果は表16のとおりである。上等六級生試験では落第者六人と、受験生の半数を占める。同五級生には落第者が一人である。しかも及第者中に皆答者がないから、問題の難解な一面があったことを物語る。「失点表」には各小学の受持教員をはじめ、立会教員、試業掛京極昇三郎や学区取締松田又造の署名捺印があり、試験の厳正な実施状況を県学務課にあて、報告していたことがうかがえる(新堂平井家文書「上等小学毎級試験表」)。
学年 | 学校 | 受験者 | 合格 | 落第 |
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人 | 人 | 人 | ||
上等6級生 | 富田林 | 7 | 2 | 5 |
大ケ塚 | 3 | 3 | 0 | |
小山 | 1 | 1 | 0 | |
喜志 | 1 | 0 | 1 | |
上等5級生 | 新堂 | 1 | 0 | 1 |
富田林 | 1 | 1 | 0 | |
上等4級生 | 新堂 | 2 | 2 | 0 |
富田林 | 2 | 2 | 0 | |
上等3級生 | 新堂 | 1 | 1 | 0 |
富田林 | 1 | 1 | 0 |
注1)新堂平井家文書「上等小学毎級試験表」より作成。
2)全級とも皆答者なし。富田林小学の受験者には女子生徒が1人おり、合格している。