富田林女紅場

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女紅場(じょこうば)とは明治初期、関西を中心として普及した女子教育機関といわれている。「学制」に認められた女児小学の教育内容よりも、はるかに裁縫や手芸、機織りなどの手仕事の教授が重視され、民衆の女子教育の要求にこたえたのである。

 堺県では明治七年(一八七四)五月一三日、堺開口(あぐち)神社に中央女紅場を開設、堺市中に南・北・東・西の四か所にも女紅場を設け、同時に市中で私的に裁縫指南することを禁止した。一三歳以上の女子の入学を督励し、教員の給料は小学賦課金のうちから支給し、女紅器械・書籍・営繕費や雇人給料などはその区内有志の献金・募金によることにしたという。郡村にもこの学校は普及し、『文部省第三年報』(明治八年)には、堺以外に富田林・貝塚・豊浦(現東大阪市)の三女紅場が挙げられ(表17)、『文部省第五年報』にも、堺中央女紅場と同北・南女紅場および貝塚・富田林・蛇草(はぐさ)(現東大阪市)の各女紅場がみえ、教場数と教員男・女および生徒の人数を記している。

表17 堺県女紅場一覧
名称 教員 生徒
堺北女校(北女紅場) 4 87
堺中女校(中央女紅場) 9 81
堺南女校(南女紅場) 4 82
堺西女校(西女紅場) 2 199
堺東女校(東女紅場) 1 57
富田林女校 2 35
貝塚女校 4 65
豊浦女校 1 38

注)『文部省第三年報』より作成。

 明治七年五月「堺女紅場場則・教則・生徒心得」(『大阪府教育百年史』二)および九年「堺県女紅場教則」(『文部省第四年報』)によると、教則を分けて甲科・乙科の二科とし、甲科は読書・算術・習字・作文などの普通教科、乙科は裁縫・紡織・飲食・調理などとした。課程を五級に分け下等三級(初・中・上)、上等二級(下・上)とし毎級六か月で進級とした。春・秋ごとに大試業があった。入学資格は小学下等教科卒業としながら一三歳以上の女子は一般入学を許可した。服装は華美を戒め質素を旨とし、用具に俳優の徽章(きしょう)や姿絵を貼ることを禁止した。県では読書などを教える甲科を近代学校に組織替えしようと考え、乙科も水準高く系統的に整備された。

 富田林女紅場は、明治八年四月一四日開設の方針が決定し、妙慶寺本堂の南の方に仮校舎を取り決めた。のち、北野ヒサ私有地建物を借用し移転した。同年七月一六日妙慶寺女紅場が開校し、堺県庁から吉田参事と朝比奈が来場している。その後、一〇月一八日に県学務課より視察巡検があり、同日午後女紅場見分が行われた。その時「先ハ一大区弐大区ニ而一等と云学校也」と富田林女紅場を優良な学校として評価している(富田林杉本家文書「日新誌」)。また、二年を経過した明治一〇年七月一一日の、堺県庁から河内第一大区二小区区長・副区長・学区取締・戸長への通達によると、今回、県乙第四二号達で、公立女紅場は堺市中三女紅場を除き、県内すべて廃止の旨達しがあったが、富田林女紅場は「教則之通裁縫・習字・算術・読物等ヲ授ケ居、生徒モ追々進歩候ニ付」として、堺市中同様存続することになった(『大阪府教育百年史』四)。しかし一二年ごろから、女紅場の存続については議論があったらしい。一三年七月ごろ富田林女紅場は存立が難しいとの議論があり、女紅場の存続は行き詰まったとされ、杉田・田守両人から、当村女紅場の維持は困難で、裁縫所に転換するという願書を提出したいとの申し出があった(「日新誌」)。結局、小学周旋人浦田治平以下三人、村総代杉田善作、学務委員平井四郎次らは、県令に次のように願い出た。それには「資金徴集難相成候間、村中協議ノ上女紅場ノ名称ヲ廃シ更ニ裁縫所ト仕、授業料ハ生徒私費ニ致度旨村中一統之者ヨリ申出」(新堂平井家文書「御願書」)とあり、「日新誌」にも同年九月八日廃止と記されている。女紅場の維持を公費で負担するのは至難であることを物語るものであった。しかしその後の「小学月報」(新堂平井家文書)に女紅場の欄があり、一四年五月には生徒二二人と教員一人が在籍し、なおしばらく存続したことが確かめられる。地域の要望にこたえた教育機関であり、通り一遍の廃止の通告だけでは、強い抵抗があった。明治三九年四月一日、富田林高等小学校付設裁縫学校となり、府立富田林高等女学校に引き継がれ、現在の府立河南高等学校の前身となった。