堺県医学校は、明治七年(一八七四)四月の医学校取立ての布告(『大阪府教育百年史』二)に始まる。それには「医者至重ノ職ニシテ学術兼備スルニ非サレハ其任ニ勝ル能ハス」と、冒頭で医者は医学の学識と医術との、双方にすぐれた人物であることを要求している。翌五月堺県医学校が堺材木町妙国寺内に仮に設けられ、開校した。入門料は開業医一円、生徒五〇銭、毎月の授業料は開業医五〇銭、生徒二五銭と生徒は開業医の半額であった。入門願いの書式を示し、生徒のみならず開業医の入門を奨励している。医学校は生徒(正則生)と開業医(変則生)とに分けられ、それぞれのカリキュラムが定められ、生徒心得や禁制事項などがあった。修業年限も正則生五か年、変則生四か年で、十数人からの教職員が関係していた。校長には森鼻宗次が就任した。彼はオランダ語以外に英語にもよく通じており、英米医書の翻訳刊行を精力的に行ったことでも著名であり、医学徒の研究上の便宜をはかった啓蒙的な医学者であった。彼の祖先は摂津三田藩の典医であり、堺材木町に開設した付属病院の院長も兼任した。堺県医学校には大阪府医学校の教員や卒業生らが多く関係した。その中には、新宮凉斎や千原卓三郎・松田孟らがいる(『大阪府教育百年史』一・二、「大阪府史料」四八)。
医学校は県内の各地に分校(分局)を設けた。和泉では伯太(現和泉市)、岸和田、尾崎(現阪南市)、河内では富田林、葛井寺(ふじいでら)、植松(現八尾市)、御厨(みくりや)(現東大阪市)、堀溝(現寝屋川市)、田ノ口(現枚方市)の各地であった。富田林分校は堺本校の開校からおよそ半年を経過した明治七年一一月、戸長杉本の宅に辻太次郎と永田左京(春斎)が訪れ、浄谷寺に医学校の分校を設けることを頼んでいる(富田林杉本家文書「日新誌」)。永田左京は当時富田林村に居住した医者で、本道(内科)・外科医であった(近世Ⅰの三「村方様子明細帳」)。七年一二月二四日には浄谷寺で開校式が行われ、堺本校校長森鼻をはじめ数人が出席している(「日新誌」)。八年六月には富田林分校の出勤医として、大ヶ塚村の医者吉井寿軒が就任している。吉井は河州一大区医務取締にもその名を連ね、富田林分校の世話掛として新堂村中島健治の名がみえる(「大阪府史料」四八)。九年二月には県庁による医生の調査が行われ、五月には内務省の実地巡検があった。内務省官員三人と堺県から庶務課・医局員三人が、午前九時過ぎ来校して、医学生に訓示をして、午前一一時二〇分、葛井寺分校へ向かった(「日新誌」)。
医学校の維持運営は県にとって当初から大きな財政負担であった。医学校の経費は、当分の間、生徒授業料および薬価などで賄い、不足分は県の小学費用の予備金支出で補う方針であった。医学校では、分校が増設される一方、一般医生からの授業料収入も増加することを見込んで、当面毎月二〇〇円ずつの補助金を願い出た。しかし授業料の滞納者があり、年月不明であるが、富田林村三人、古市(ふるいち)・誉田(こんだ)・郡戸(こおず)(いずれも現羽曳野市)・津堂・古室・小山・大井(いずれも現藤井寺市)各村各一人の滞納者に催促通知が出されている。とりわけ、医学校分校の経営は困難で、備品器械書籍などの購入のため、医生総代や医員世話掛が富くじや頼母子(たのもし)講の実施を企てたほどであった。九年九月、県は組織を変え、公立病院に医学校分局を設けたが、一〇年六月、これを廃止し、県下各地に医学教授のため、教授や巡講師を派遣することにした。また、一三年八月には郡役所ごとに給費医学生を募集し、卒業後その郡区内での開業を義務付けるなど、試行錯誤しながら医学教育の維持をはかったが、堺県医学校は廃県前の一三年九月に廃止された。富田林分校もそれ以前に廃止された可能性もあるが、詳細は不明である(『大阪府教育百年史』二・四)。