教育令の公布と改正

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明治一二年(一八七九)九月「教育令」が公布され、それまでの「学制」に代わった。それは従来の学区制を廃止し、小学校は町村単位に設置し、場合により数か町村連合による設置を認め、学齢期間八か年中の少なくとも一六か月は教育を受けること、私立学校があれば公立小学校を設置しなくともよいとしたほか、学区取締を廃止し、小学世話掛の代わりに学務委員を設置するなどが主要な内容であった。学務委員はその職務心得によると、受持学校の事務の幹理・就学督励・貧民の子女および不具者の教育方法の立案、公立学校の書籍・器械の整備などを担当し、公立学校の経費、公立学校教員の勤怠・給料、公私立学校の実況を調査し、毎月一度学務課へ報告するなど、広い職務が規定されていた。

 「教育令」は自由教育令ともいわれるとおり、府県や町村の自由な裁量が認められたため、公立小学校への就学の低下を招いた。堺県では、一三年五月、七月、翌年一月と、再三不完全な私学への入学を禁じ取締りを強化した(『大阪府教育百年史』二)。以上のような情勢に対応して、改正教育令が一三年一二月に公布された。教育行政の中央集権化・統制化を強め教科内容に国家が干渉し、小学校の修業年限八年のうち三か年の課程の終了まで、毎年一六週以上の就学を義務づけている。小学校の教則も文部省が頌布した綱領にもとづき府県で編成し、文部卿の許可を経て施行された。学務委員の選出方法を変更し、区町村会の推薦した者を知事が選任した。こうした情況の中で、教育の実体はどう展開していったか、眺めてみたい。