明治一三~一四年(一八八〇~八一)の就学の状況を、具体的な史料から眺めてみよう。平井家文書には、明治一三年三月から翌年五月までの第二聯合の小学(富田林・新堂・喜志・新家〈ただし一部分〉・大ヶ塚)の月報が残されている。表19は月報から作成した就学状況である。学務委員の月番から毎月提出された「月報表」の内容を取りまとめ、翌月一〇日までに県学務課へ差し出すことになっていたものである。「月報」には各学校の戸数、学齢者数、生徒数(在籍生徒)および生徒数の男女別人数・学齢未満人数・学齢超過人数といった就学状況のほか、教員数および各教員の受持生徒級別人数や校舎の新築借家の別など種々の記載があった。表19の就学率は就学者(在籍者)を学齢人口で除した数値である。富田林小学は一三年八月を除き、四〇%台を維持する。翌一四年には五〇%代に上昇し、五月には六〇%近くになる。新堂小学は、一三年は三月の四五・一%を除き二〇%代後半の低い比率で、翌年は二月に一時的に五〇・二%となるが、三六~七%台であった。喜志小学の場合は、三五~八%で、一四年一月のように二一%に落ち込む月があった。大ヶ塚小学は以上の三小学に対して六〇%台の高い比率で、一四年三月には七二・〇%であった。
校名 | 明治13年 | 明治14年 | ||||||||||||
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3月 | 5月 | 6月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | ||
富田林 | 学齢人口(人) | 481 | 472 | 481 | 481 | 467 | 469 | 469 | 469 | 469 | 469 | 469 | 469 | 469 |
就学者(人) | 232 | 212 | 210 | 184 | 200 | 202 | 202 | 204 | 203 | 251 | 269 | 278 | 281 | |
就学率(%) | 48.2 | 44.9 | 43.7 | 38.3 | 42.8 | 43.1 | 43.1 | 43.5 | 43.3 | 53.5 | 57.4 | 59.3 | 59.9 | |
新堂 | 学齢人口(人) | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 | 488 |
就学者(人) | 220 | 147 | 132 | 132 | 132 | 137 | 147 | 146 | 147 | 245 | 176 | 182 | 184 | |
就学率(%) | 45.1 | 30.1 | 27.0 | 27.0 | 27.0 | 28.1 | 30.1 | 29.9 | 30.1 | 50.2 | 36.1 | 37.3 | 37.3 | |
喜志 | 学齢人口(人) | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 | 374 |
就学者(人) | 131 | 131 | 131 | 137 | 137 | 137 | 137 | 137 | 79 | 142 | 142 | 142 | 142 | |
就学率(%) | 35.0 | 35.0 | 35.0 | 36.6 | 36.6 | 36.6 | 36.6 | 36.6 | 21.1 | 38.0 | 38.0 | 38.0 | 38.0 | |
新家 | 学齢人口(人) | 131 | ||||||||||||
就学者(人) | 70 | |||||||||||||
就学率(%) | 53.4 | |||||||||||||
大ケ塚 | 学齢人口(人) | 401 | 401 | 401 | 401 | 401 | 401 | 401 | 403 | 403 | 403 | 444 | 444 | |
就学者(人) | 256 | 256 | 256 | 270 | 270 | 273 | 275 | 262 | 281 | 290 | 214 | 281 | ||
就学率(%) | 63.8 | 63.8 | 63.8 | 67.3 | 67.3 | 68.1 | 68.6 | 65.0 | 69.7 | 72.0 | 48.2 | 63.3 |
注)新堂平井家文書より作成。
一〇年代後半は大阪府下全体と、各郡別の就学率が『大阪府統計書』などから明らかで、表20でこれを示した。市域を含む河内石川郡・錦部郡の就学率は、一六年は七一%と七〇%、一七年が七一%と七〇%と府全体の比率が六一%と六二%であるのに比較して、両郡等農村部の比率がむしろ都市近郊の数郡よりも高かった。ところが、一〇年代後半の府下農村はデフレの進行などによる米価の下落もあり、経済的困窮に陥っていた。その上河内木綿の生産地である南河内農村は、府下の気候の不順や、綿作・綿織物業の衰退や地主制確立期という社会経済的変動を受け、摂泉両国の沿海の村落と共に、農村の困窮が最も甚だしかったとされる(『大阪百年史』)。一八年の就学率は、石川・錦部両郡とも前年に比して極端に低下し、それぞれ三九%、五五%となった。貧困に陥った農民が多く発生し、その上一八年六月の淀川大洪水は甚大な影響を与え、困窮はその極みに達したとされている。『明治十八年文部省年報』の「大阪府学事年達」には、「淀川大洪水ノ後始末鎮水ノ後ト雖(いえど)モ、自家生産ノ道スラ尚ホ苦ム、安ンゾ子弟ノ教育ニ遑(いとま)アランヤ」と学事の衰退にふれている。翌一九年は石川郡七四%、錦部郡六五%と就学率は恢復(かいふく)したが、翌二〇年ではそれぞれ二六%、三一%と再び低下した(『大阪府統計書』)。就学率の本格的な恢復には、さらに年月が必要であったのである。
年次 | 石川郡 | 錦部郡 | 大阪府 | ||||||
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学齢者総数 | 就学者 | 不就学者 | 就学率 | 学齢者総数 | 就学者 | 不就学者 | 就学率 | 就学率 | |
人 | 人 | 人 | % | 人 | 人 | 人 | % | % | |
明治15年 | 4598 | 2950 | 1648 | 64.2 | 2842 | 2100 | 742 | 73.9 | 57.3 |
16年 | 4470 | 3181 | 1289 | 71.2 | 3199 | 2251 | 948 | 70.4 | 60.6 |
17年 | 4909 | 3477 | 1432 | 70.8 | 3153 | 2202 | 951 | 69.8 | 62.1 |
18年 | 5392 | 2112 | 3280 | 39.2 | 3252 | 1779 | 1473 | 54.7 | 56.5 |
19年 | 5309 | 3901 | 1408 | 73.5 | 3318 | 2163 | 1155 | 65.2 | 57.1 |
20年 | 8719 | 2248 | 6471 | 25.8 | 4938 | 1523 | 3415 | 30.8 | 46.1 |
注)『大阪府統計書』より作成。百分率は小数点第2位以下四捨五入。
次に、入学した生徒が下等四級生からどれほど在学して、学校生活を継続するかを眺めてみたい。一六年一二月の『文部省第十一年報』には、文部省官憲を中心とした大阪府学事視察の報告が載せられている。「大阪府下巡視功程」と名付けられた記録には、「小学校生徒ハ就学督責ニ由リ、近時大ニ其数ヲ増加シタリ、然(しかれ)トモ目下ノ情態ヲ以テ察スルニ、僅カニ初等小学ヲ卒業シテ退学スルモノ多ク、其中等科ヲ卒(お)ヘ高等科ニ進入スルモノヽ如キハ、真ニ僅少ナルヘシ、現ニ就学生十一万余人ノ内高等科ヲ修ムルモノハ僅カニ百人許(ばかり)ニ過キスト云フ」と述べている。一般的な趨勢(すうせい)は、初等科のみで退学する者が大部分であることを物語っている。