明治一八年(一八八五)八月、教育令は再度改正された。学務委員は廃止されその業務は戸長が兼務した。また、簡易な小学校教育が可能な「小学教場」が置かれ、授業料を徴収せず「小学簡易科」の前身となった。翌年四月の「学校令」(師範学校令・中学校令・小学校令)では、授業料免除の小学簡易科を設置し、小学校教育に代用することを認めている。小学簡易科は三か年で、「読書・作文・習字・算術」の四科目で合計一週間一八時間の授業内容が決定し、二三年一〇月、小学簡易科が廃止になるまで続いた(『大阪府教育百年史』一・三)。以上のように教育令再改正から学校令までの動きは、地方教育費の節減の中で、これと対応しながら授業料の徴収を原則として、就学率の向上を目ざす一方、貧困家庭の子息の就学を容易にするため、代用機関である小学簡易科の設置を認めており、小学校四年の就学義務年限を目ざして、小学校の一層の整備に努めたと考えられよう。
大阪府では、一九年一月ごろから「一銭以上三拾銭以下」の授業料徴収が始まったらしい。「日新誌」(富田林杉本家文書)の一九年二月二六日の箇所には、堺区各小学では初等科二銭、中等科三銭、高等科五銭、その他幼稚園ならびに裁縫場は五銭に議決されたとある。市域小学校の現場ではどうであったか。彼方校と板持校につき一九年五月から翌年三月までの一一か月分の記録がある。「授業料徴収調書」(西板持土井家文書)である。彼方校は初等科・中等科にわたり毎月の既納者と納入金額を挙げ、未納者は毎月初等・中等科別に金額は記さず、人数だけが判明する。合計五~六人から一二人くらいで、全体の一〇~一五%くらいであろう。板持校の未納者数と金額は、毎月にわたって記入はなく断片的である。一九年一二月二二日、未納者数は初等・中等科生合わせて一八人、金額は二二・三銭で、同日付けで初等科八人から一二銭の追徴金を取った。翌年二月二八日、一月分授業料追徴金として、初等科生四人から五・二銭を収集した。「右者一月分授業料上納スベキ力ヲ有シテ上納セザル者ヲ追徴候ニ付、及御回<ママ>候也」と記されている。詳しくは不明であるが、授業料収集に対し、在地では貧困ではなく何らかの理由で追徴に抵抗した者があったことを、示すものであろう。ママ>