神仏分離

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明治維新は宗教にとっても大きな変化の時期であった。ことに注目すべきことは、この時期に多くの寺院が廃寺となったことであろう。

 明治元年(一八六八)三月一三日、明治政府は祭政一致を布告し、すべての神社、神官を神祇官の管轄下に置く方針を示した。このような祭政一致の方針を現実化するためには、いくつもの問題が存在したが、その第一は当時の神社の大半が寺院と習合していることであった。同年三月二八日に出された布告は神社に由緒書の提出を迫るとともに、仏像を神社の神体とすることを禁じる内容で、ここに明治政府の神仏分離の方針が明らかに示されたのである(『法規分類大全』社寺門神社)。大阪裁判所もこの布告を受け同文の達しを三月三〇日に出し(『堺県法令集』一)、翌四月からは神社・寺院の悉皆(しっかい)調査を開始している。

 この政府の方針はあくまでも神仏の分離に主眼があったが、現実的にはそれは廃寺令として受容され、いわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮を呼び、この時期に多くの寺院が廃され、貴重な文化財が失われた。

 さて、富田林市域において、この廃寺はどのように行われたのであろうか。明治元年以降大阪裁判所、堺県は毎年のように寺社の調査を実施している。これは、神仏分離や廃寺の進行、あるいは後に述べるように神社の整理状況などを掌握し、また調査の実施を通じて各村においてそれらの進行を促す目的があったものと思われる。富田林市域では表22にみられるように明治四年から明治八年にかけて多くの寺院が廃寺となっている。堺県ではこの時期、神仏分離だけではなく、路傍の地蔵などの撤去を命じる達しを出しており(五年四月二八日堺県布達『堺県法令集』一)、表22に登場しない小さな堂庵についても多くが廃されたものと思われる。以下、史料によって廃寺前後の状況が明らかな例をいくつか検討することとしたい。

表22 明治以後の寺院の推移
近世村 宗派 寺院名 備考
真言宗 腰神看坊
融通念仏宗 金胎寺 明治4年廃寺
横山 融通念仏宗 穴塩寺(西塩寺) 明治4年廃寺
伏見堂 浄土宗 青蓮寺
融通念仏宗 観音寺 廃寺
彼方 真言宗 明王寺
真言宗 蓮華心寺 明治5年廃寺
融通念仏宗 西光寺 廃寺
無本寺 円満寺 不詳
板持(西) 律宗 西福寺 廃寺
浄土真宗(西) 専念寺
融通念仏宗 大念寺
錦郡 真言宗 称(聖)音寺 明治7年廃寺
融通念仏宗 常楽寺 廃寺
融通念仏宗 福竜寺 廃寺
融通念仏宗 極楽寺
無本寺 安楽寺
錦郡新田 融通念仏宗 神宮寺 廃寺
伏山新田 浄土宗 安楽寺
廿山 融通念仏宗 長福寺
加太新田 黄檗宗 龍雲寺
甲田 黄檗宗 養楽寺
喜志 浄土真宗(西) 明尊寺
浄土真宗(西) 月光寺
浄土真宗(西) 正信寺
浄土真宗(東) 金光寺
融通念仏宗 極楽寺
融通念仏宗 安楽寺
浄土真宗(西) 常心寺 明治6年廃寺
新家 浄土真宗(東) 光円寺
新堂 浄土真宗(西) 光盛寺
浄土真宗(西) 専光寺
浄土真宗(西) 教蓮寺
浄土真宗(西) 円光寺
無本寺 宝海寺 明治6年廃寺
無本寺 清宇庵 廃寺
中野 浄土真宗(西) 西徳寺
浄土真宗(東) 正受寺
富田林 浄土真宗(西) 興正寺別院
浄土真宗(西) 妙慶寺
融通念仏宗 浄谷寺
毛人谷 浄土宗 西方寺
南大伴 浄土真宗(西) 円照寺 昭和35年廃寺
北大伴 浄土真宗(西) 常念寺
浄土真宗(西) 光徳寺
山中田 浄土真宗(西) 泉龍寺
南別井 浄土宗 極楽寺
黄檗宗 慈眼寺
北別井 浄土宗 浄信寺
無本寺 観音堂 不詳
板持(東) 浄土宗 養寿庵 不詳
融通念仏宗 正方(法・徳)寺 不詳
無本寺 薬師堂 不詳
佐備 法相宗 青憧寺 明治年間廃寺
融通念仏宗 浄蓮寺 明治8年廃寺、後に良法寺として復興
無本寺 南向庵 不詳
融通念仏宗 良法寺 明治28年若江郡若江村から移転
真言宗 薬師寺 明治8年廃寺
龍泉 真言宗 龍泉寺
融通念仏宗 念仏寺 明治年間廃寺
甘南備 浄土真宗(西) 浄福寺
融通念仏宗 遍照寺
臨済宗 楠妣庵観音寺 明治6年廃寺、大正6年復興

注)記載内容は、明治12年に堺県が各寺に提出させた明細書による。それ以前に廃寺となったもの、およびその可能性があるものについては『市史』2を参照した。