新堂

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新堂村には近世四か寺が存在した。このうち宝海寺(法界・法海寺)は無本寺の浄土真宗寺院であったが、文政六年(一八二三)の新堂村「宝海寺什物(じゅうもつ)帳」(新堂平井家文書)には寺内に観音堂や不動尊像、役行者像などがあったことが記されており、おそらくは密教系寺院から転宗した寺院と考えられる。観音堂に祀られた観音は『河内鑑名所記』に「宝海寺十一面観音御長(みたけ)一尺四寸五分あん阿弥の作」と記され、石川三十三所観音の一つでもあった。この宝海寺は明治の初期には住職はいたものの、檀家はなく、おそらくはそれが理由となって明治六年(一八七三)に廃寺となっている。同年一月一三日に宝海寺看住および戸長の連名で堺県に提出された「廃寺御届書」(新堂平井家文書)には、宝海寺は無禄であるため村入費を充てて存続してきた。しかしながら布告が出されたので廃寺とする。また仏像については村内の他の三寺に預けることとし、什物の中には寄進されたものもないので入札をして、その収入を学校や村の入用に充てることを申し出ている。宝海寺のように廃寺となった寺では仏像は他寺にゆだね、什物については入札をして売り払うことが普通であった。

 このような場合に問題となったのは、寺院の住職の処遇であった。「廃寺御届書」提出と同じ六年一月、宝海寺の住職は他寺の住職や副区長と共に堺県に対して、生活が成り立たないので、僧籍を捨てて帰農したいと願い出ている(新堂平井家文書「乍恐奉願上候」)。その結果を史料から知ることはできないが、帰農が認められたところで、田地があるわけではなく、生活の苦しさは変わらなかったことが想像できるだろう。

 なお、宝海寺の仏像は先にも述べたように新堂村内の他寺に預けられたが、その後昭和八年(一九三三)に新道(しんみち)(現富田林市富田林町)の大師堂に移され現在でも地元の人々によって祀られている。

写真35 大師堂(新道)