喜志

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喜志村川面(かわづら)の常心寺は元禄二年(一六八九)に建立された浄土真宗西本願寺末の寺院であったが、無住無檀であったために明治六年(一八七三)に廃寺になっている。明治六年に廃寺が多いのは、堺県から無住無檀の寺院は廃止せよという達しが出たためであろう。大阪府では明治五年一一月にこの内容の達しが出ており(『大阪府布令集』一)、また奈良県でも六年三月に無住無檀の寺院を廃止し、付属品を売り払って代金を学校の費用に充てよという達しが出ている(『明治維新神仏分離史料』七)。堺県で出された達しをいまだ確認していないが、おそらく五年末から六年初めにかけて同様の達しが出され、個別の寺院にも廃寺の方針が伝えられたのであろう。

 達しの内容を聞いた常心寺の信者は大いに驚いて六年七月に寺院存続の嘆願書を堺県に提出している(川面土井家文書「以書附奉願上候」ほか)。この史料によれば常心寺はかつて住職がいたが安政七年(一八六〇)に病死し、以後村内の同じく真宗西本願寺末の正信寺の住職が兼任していた。しかしながらこのような事態となったため、急ぎ住職を入れるつもりということで、具体的な人名まで挙げ、寺の存続を願い出ている。この願いは結局叶えられなかった。九月に出された「御届ヶ書」(川面土井家文書)には「致方も無御座候」という表現がみられる。七月から九月にかけては寺院の建物、仏像、什物などの処理が行われている。七月中に仏像、什物などの一覧が作成され、県に届けられている(同「御歎願奉願申上候」ほか)。その上で仏像や什物などの一部は付近の寺院に預けられ、また建物は入札にかけられ五両二分で売られた(同「御届ヶ書」)。什物のうち膳、椀などはやはり入札にかけられ、また常心寺が所有していた山も売り払われている(同「常心寺什物諸道具売払帳」)。このようにして極めて短時間のうちに常心寺は姿を消してしまったのである。他の寺院について廃寺の様子をうかがう史料は少ないが、おそらく同様の手順で廃寺が進められたことと思われる。その結果富田林市域において約四分の一の寺院が姿を消していった。