明治初期に大きな変動にみまわれたのは寺院だけではなく神社も同様であった。近世には寺院とならんで村落生活の精神的、社会的中心であった神社を、国家機構の中に位置づけようとする明確な意志が明治政府によって示されたためである。ことに明治のごく初めの段階では、政府内にも神祇官が組織されるなど、神道を国教としていく動きには急進的なものがあった。
明治初期における神社政策のうち、神社に府社、郷社、村社の区別を行ったことは、その後の地域社会における神社のありかたにさまざまな影響を与えた。特に明治四年(一八七一)七月四日に出された「郷社定則」(『法規分類大全』社寺門神社)は、郷社を「一社ニテ五箇村七箇村ノ氏子場其数千戸内外ニシテ粗戸籍一区ニ合スルモノハ乃チ自然ノ郷社」と定めるもので、この方針にそって、富田林市域では美具久留御魂(みぐくるみたま)神社(喜志)と水郡(にごり)神社(甲田)が郷社とされ、それ以外の神社は村社とされた。