氏子をめぐる混乱

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「郷社定則」が出されたのと同日の明治四年(一八七一)七月四日には「大小神社氏子取調規則」および「大小神社神官守札差出方心得」(『社寺例規類纂』)が出されている。これはそれまで戸籍の役割を果たしていた宗門人別帳の制度が、四年四月四日の戸籍法公布にともなって廃止されたことと深く関わっている。近世にはすべての家がいずれかの寺院の檀家であったが、明治政府は神社に寺院にかわる位置づけを与え、すべての家をいずれかの神社の氏子とする方針を立てた。具体的には神社ごとに氏子調査が行われ、氏子帳が作成されるとともに、氏子である証として各人に守札が渡されることとなったのである。川面には「美具久留御玉神社産子取調帳」(喜志山本家文書)という氏子帳が残されているが、これをみるとその内容は近世の宗門人別帳とほぼ同様で、家ごとに各人の生年月日、名前、家長との続柄、年齢が記されたものとなっている。しかしながらこの氏子帳の作成、守札の授与は政府の思惑とは異なり、地域社会においてさまざまな混乱を引き起こした。その一例を彼方村の事例でみてみよう。

写真36 守札の表(左)と裏(右)(田守家所蔵)

 彼方村には春日神社があり、そのほかにも寺院の鎮守としていくつかの神社が存在した。さらに彼方村は他の村落と共に甲田にある水郡神社(明治四〇年に錦織神社と改名)の氏子村でもあった。このように村落ごとの神社とは別に、数か村ときには数十か村の単位で祭祀される神社は郷社と呼ばれる。これは先に述べた「郷社定則」にいう郷社と実態として重なるものが多いが、歴史的には近世あるいはそれ以前にまでさかのぼるもので、近畿地方にはかなり普遍的にみられる。彼方村の人々は春日神社の氏子であるとともに、水郡神社の氏子でもあるということになる。民俗学ではこのようなものを二重氏子と呼んでいる。さて従来からこのような重層的な神社に対する信仰が存在していたところに、氏子帳の制度が導入された結果、混乱が生じるのは当然であろう。明治四年一二月一七日に彼方村の庄屋から堺県に出された「御守札御願」(彼方中野家文書)には、当村は春日神社と水郡神社の氏子であるから、両方の守札を受けたいという希望が書かれている。このような願いは村落と神社の関係をそのまま表現したものであるが、これは明治政府の方針とはまったく異なるものであった。その後の経過は不明であるが、明治五年四月二五日に出された「乍恐御詫奉申上候」(同)によると、先般当村が春日神社の氏子であると申し上げたのはまったくの「唱違」なのでお詫び申し上げるという内容が記されている。これは彼方村の氏神は水郡神社一つであるということを地元で確認した内容である。

写真37 春日神社

 このように明治初期の氏子帳・守札に関する政策は、在地の信仰の実態とさまざまな齟齬(そご)をきたし、彼方村の例にみるように、実際の適応には大きな混乱をもたらした。同様の混乱は全国的にみられ政府は明治六年五月二九日の太政官布告をもってこの政策を中止している(『社寺例規類纂』)。