町村制と戸長役場管区

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明治二一年(一八八八)六月一三日の内務大臣訓令第三条の但し書には、「現今ノ戸長所轄区域ニシテ地形民情ニ於テ故障ナキモノハ、其区域ノ儘(まま)合併ヲ為スコトヲ得」(『法令全書』)とあり、大阪府下でも一七年以来の戸長役場管区が新しい村となったところが多く、富田林市域では、すべての戸長役場管区がそのまま町村制の村になっている。しかし、羽曳野・藤井寺・河内長野など、近隣市域では両者が一致しないところがある。丹北(たんぽく)郡・丹南郡・志紀郡などは境界が錯雑(さくざつ)しており、同名の村が両方に存在することもあって、町村制施行に際して郡界の整理の必要があった。そのため郡界付近では戸長役場管区をそのまま町村制の村とすることができなくなった。それに対し、石川・錦部両郡は、町村制施行後も境域は変わらず、そのような問題は生じなかった。また、丹北郡の三宅村(現松原市)は、旧村としては大村で、周辺の商業の中心として独立性が強く、町村制施行に際して単独で村制を敷いた。富田林村は、南河内郡随一の商業都市で経済力を有し、石川郡の地価一万円以上を所有する大地主七人のうち、五人が富田林村民であった(『明治廿四年大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』)。人口も多かったが、境域が狭く、毛人谷(えびたに)村と合わせて一村のような状態にあり、合併は、むしろ自然であった。喜志村は単独で村制を敷いたが、元は新家村と二か村で第三戸長役場管区を形成していた。それが、一八年に一足早く合併して一村となったものである。

写真38 地価1万円以上所有地主一覧 (平井家文書『明治廿四年大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』)

 錦部郡の場合も、北部の富田林市域になっている廿山(つづやま)村・錦郡村・彼方(おちかた)村は、第十四・十五・十六戸長役場管区の村が合併してできた村である。ところが、河内長野市域になっている南部は、戸長役場管区と町村制の村とが一致しないところが多い。これは、小村が多く、一戸長役場管区だけでは町村制の村として小規模すぎたことも一因であったが、それ以上に一七年一月の戸長役場管区制に問題があったと考えられる。山間部の村々は独立性が強く、強引な村の統合に対する抵抗があり、一七年八月、村々の要求によって戸長役場管区が変更され、この戸長役場管区が町村制の村に移行したと思われる(河内長野市松下家文書「郡村区名換並役名学校所留」)。富田林市域でも、戸長役場管区を合併して一村とすることには抵抗があり、二一年七月二六日、錦郡新田・伏山(ふしやま)新田は市村新田(現河内長野市)と合併して一村とする案を立てて郡役所に申し出た。錦郡新田・伏山新田は、錦郡村と共に第十五戸長役場管区に属し、錦郡村の田中源太郎が戸長であったが、田中は、両新田が分離することに強く反対した。三新田は、郡役所が難色を示すと、市村・向野両村(ともに現河内長野市)を加えた五か村合併を提案したが、郡長は認めようとしなかった。市村新田には、市村・向野村と合併して第十七戸長役場管区を一村とすることも止むを得ないという意見が出始めたが、錦郡新田が市村新田に強力に働きかけ、錦郡新田・市村新田合併を申請したが却下された。その結果、第十五戸長役場管区の三か村が合併して錦郡村となった(「市村・市村新田・向野村合併一件録」『河内長野市史』八)。