新しい村の村名は、一番大きい村の村名を用いるか、名勝旧跡など著名の地名があればそれを村名にすることになっていた。前者は、富田林・新堂・廿山・錦郡の諸村で、大伴村も南北大伴村が共に大村であったことによる。後者は東条村で、石川郡が中世には東条郡とも呼ばれたことに由来する(『大阪府全志』四)。彼方村は、大村である板持村に隣接して石川郡板持村があり、混乱を避けたものと思われる。町村長と助役は、町村会において三〇歳以上の公民で選挙権を有するものの中から選挙することになっており、任期は四年であった。町村長は、町村を統括し、行政事務を担当し、助役は、その補助をすることになっているが、町村長は、町村会の同意を得て、事務の一部を分掌させることができた。錦郡村では、明治二二年(一八八九)六月、村会の同意を得て衛生・勧業事務に関する事項を助役に担当させている(富田林市所蔵文書錦郡村「議事書類綴」)。
「市制町村制」に付せられた「市制町村制理由」は、地方自治の成果を上げるためには、「地方ノ人民ヲシテ名誉ノ為メ無給ニシテ其職ヲ執ラシムル」必要があり、「之ヲ担任スルハ其地方人民ノ義務」であり、「国民タル者国ニ尽スノ本務」であって、「丁壮ノ兵役ニ服スルト原則ヲ同ク」するものであるとしている。ただ、「人民ヲシテ普ク此義務ヲ帯ハシムルトキハ其任又軽シト為サス、故ニ一朝ニシテ此制ヲ実行セントスルハ頗(すこぶ)ル難事ニ属ス」ので、「漸次参政ノ道ヲ拡張シテ公務ニ練熟セシメントスル」ために「力(つと)メテ多ク地方ノ名望アル者ヲ挙ケテ此任ニ当ラシメ」「其責任ノ重キヲ知リ参政ノ名誉タルヲ弁スルニ至ラ」せようとした。町村制第八条は、町村公民は「名誉職ニ選挙セラルヽノ権利アリ」とするとともに「名誉職ヲ担任スルハ町村公民ノ義務ナリ」として、正当な理由がない限り「名誉職ヲ拒辞シ又ハ任期中退職スルコトヲ得ス」と規定し、正当な理由なくして名誉職を断り、あるいは中途退職した者には、町村会の議決によって三年以上六年以下の公民権停止と、その間の町村費負担の八分の一から四分の一を増課することができるという罰則まで設けていた。
東条村では、二二年五月一七日の村会で村長の選挙が行われ、松尾翠(甘南備)六票、道籏治平(佐備)三票、道籏才蔵(佐備)二票、無効一票で松尾が当選した。三一日の村会では助役・収入役・書記の選挙が行われ、助役に中尾庄二郎(佐備)、収入役に松村民蔵(龍泉)が当選した。書記は、村長が推薦した向山卯太郎(甘南備)・山際菊松(佐備)・松村肇(龍泉)の三人が選出された。ところが、八月一五日、収入役の松村と書記の山際が辞任した。一六日、村長は向山を収入役の後任に推薦し、書記は松村一人になった。二三年二月二八日、助役中尾が病気を理由に辞表を提出し、三月一五日の村会で、植谷周平(佐備)が九票中八票を得て当選した。九月七日、収入役の向山が死去し、後任に山際菊松が推薦されたが、翌二四年六月には松村肇と交代している。さらに二五年三月、松尾が「今般商業都合ニ依リ他ヘ出、奇(寄)留致度、就テハ公務ニ差支(さしつかえ)候」として村長を辞任し、後任村長に中尾実が一一票中一〇票を得て当選した。四月になると助役の植谷が辞任し、後任に松村民蔵が選出され、五月には収入役の松村が辞任し、後任に小村富太郎が村長の推薦を得て選任された(富田林市所蔵文書 東条村「村会議案議決議事録綴」)。このような村吏の交代は、東条村に限ったものではなく、新しい村の運営が困難であったことを物語っている。ちなみに明治二四年の村長・助役・収入役と村役場の所在地は表24のとおりである。
村名 | 村役場所在地 | 村長 | 助役 | 収入役 |
---|---|---|---|---|
富田林 | 大字富田林182番地 | 仲村一郎 | 田守政太郎 | 用木虎太郎 |
新堂 | 大字新堂707番地 | 平田三郎 | 多田三重郎 | 平田勝治郎 |
喜志 | 喜志村913番地 | 阪井種治 | 山村増治 | 仲谷新吾 |
大伴 | 大字南大伴70番地 | 吉岡重蔵 | 三島広次 | 津田永造 |
東条 | 大字龍泉644番地 | 松尾翠 | 植谷周平 | 松村肇 |
廿山 | 大字新家7番屋敷 | 岩根甚吾 | 森元藤次郎 | 尾崎寅太郎 |
錦郡 | 大字錦郡91番屋敷 | 田中源太郎 | 奥井保太郎 | 田中力松 |
彼方 | 大字彼方34番屋敷 | 奥城良造 | 土井光治朗 | 箕浦駒太郎 |
注)新堂平井家文書『明治廿四年大阪府石川・錦部・八上・古市・安宿部・丹南・志紀郡役所統計書』より作成。
名誉職である村長・助役は無給であるが、ほとんどの村で「名誉職員報酬支給概則」が設けられ、報酬が支払われていた。明治二五年度の報酬額は表25のとおりであるが、有給村長であった喜志村長の給料と比較して金額に差異が認められない。廿山村は、報酬年額を四分して一・四・七・一〇月に支給し(廿山尾崎家文書)、東条村は、六分して一・三・五・七・九・一一月に支給することになっていたが、錦郡村は毎月二八日に支給することになっており、まったく給料と違いがなかった。また、廿山村では「名誉職員報酬支給概則」と同時に「村長助役実費弁償額支給規則」を制定し、「毎年度本村会カ議決スル所ノ金額ヲ以テ其年度内ハ過不足ヲ問ハサルモノトス」(同)と一定額の実費弁償費を支給することにしている。これは、出張旅費・日当、文房具料を含んでいるものの、四分して報酬金と同時に支給することになっており、報酬に類似したものであった。ほとんどの村が予算書に月額を記し、彼方村のように「過不足ヲ問ハズ支給ス」と付記しているところもあった。二五年および三〇年の村長・助役・収入役の年間給与は表25・26のようである。富田林村は二九年八月八日、町制を施行するが、村長・町長、助役とも報酬額が高く、三四年、郡役所が大阪府の指示で行った調査では、町長一九二円、助役一四四円で、南河内郡でも最高であった(富田林杉田家文書)。
村名 | 給与の種類 | 村長 | 助役 | 収入役 |
---|---|---|---|---|
富田林 | 報酬 | 120.00 | 90.00 | |
給料 | 84.00 | |||
喜志 | 報酬 | 54.00 | ||
実費弁償 | *1.80 | |||
給料 | 84.00 | 54.00 | ||
東条 | 報酬 | 72.00 | 60.00 | |
実費弁償 | 15.30 | 9.90 | ||
給料 | 54.00 | |||
廿山 | 報酬 | 70.00 | 58.00 | |
実費弁償 | 32.00 | *6.00 | ||
給料 | 60.00 | |||
錦郡 | 報酬 | 84.00 | 60.00 | |
実費弁償 | 6.30 | 5.70 | ||
給料 | 60.00 | |||
彼方 | 報酬 | 80.00 | 70.00 | |
実費弁償 | 18.00 | 14.16 | ||
給料 | 66.00 |
注1)*は明治24年度である。
2)各村の明治25年度予算書より作成。
村名 | 町村長 | 名誉職助役 | 有給助役 | 収入役 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
氏名 | 報酬 | 氏名 | 報酬 | 氏名 | 報酬 | 氏名 | 報酬 | |
円 | 円 | 円 | 円 | |||||
富田林町 | 田守政太郎 | 150.00 | 野口良造 | 120.00 | 町長兼任 | |||
新堂村 | 平田三郎 | 144.00 | 多田三重郎 | 96.00 | 高橋百造 | 72.00 | ||
喜志村 | 仲谷新吾 | 96.00 | 溝川門造 | 5.00 | 松本捨五郎 | 7.00 | 柳井弥太 | 60.00 |
大伴村 | 吉岡重蔵 | 97.80 | 武田捨五郎 | 73.80 | 木口勝太郎 | 78.00 | ||
東条村 | 松村民蔵 | 84.00 | 道籏巳三郎 | 78.00 | 植野常三郎 | 60.00 | ||
廿山村 | 尾崎寅太郎 | 79.00 | 内田忠治 | 61.00 | 小山宇太郎 | 72.00 | ||
錦郡村 | 田中源太郎 | 90.00 | 奥井保太郎 | 66.00 | 田中力松 | 84.00 | ||
彼方村 | 土井又平 | 102.00 | 土井光治朗 | 90.00 | 箕浦駒太郎 | 84.00 |
注)『明治三十年大坂府南河内郡役所統計書』より作成。
町村長・助役は、原則として無給であったが、喜志村では村長が有給になっていた。これは、「町村制」第五六条の「町村ノ情況ニ依リ町村条例ノ規定ヲ以テ町村長ニ給料ヲ給スルコトヲ得、又大ナル町村ニ於テハ町村条例ノ規定ヲ以テ助役一名ヲ有給吏員ト為スコトヲ得」(『法令全書』)という規定によるものである。喜志村の条例が見当たらないので理由は不明であるが、有給の村長・助役は、五七条の規定によって随時退職することができたからであろう。富田林町も、四〇年一一月三〇日、阪口幸治郎が町長に選挙されると、「本月三拾日本町々会ニ於テ、貴殿ハ本町有給町長ニ選挙相成候ニ付、此段及通知候也」(富田林勝山家文書)と通知している。これは、阪口が西浦村(現羽曳野市)の村民で富田林町民ではなかったため、「町村制」第五六条第二項「有給町村長及有給助役ハ其町村公民タル者ニ限ラス、但当選ニ応シ認可ヲ得ルトキハ其公民タルノ権ヲ得」(『法令全書』)という規定を適用しなければならなかったからである。
本市域に有給助役がみられるようになるのは、日清戦争後である。彼方村では、三二年三月、事務の増加、煩雑化に対処するために助役を増やして二人にした。三三年七月、土井光治朗が村長を辞し、後任に助役の箕浦駒太郎が選出された。助役の後任に選ばれた中尾宇三郎が就任を辞退したため、三並良五郎が選ばれたようであるが、九月、病気を理由に辞職した。そこで村長は、条例第三号「助役ニ関スル件」(彼方土井家文書)を村会に提案した。条例は三条からなり、助役定員を二人として一人を有給とし、名誉職助役を上席とするものであった。提案の理由は、村民がすべて農民で、「政治思想ニ乏シク、自治ノ制度ヲ熟知スルモノ至テ少ナキヲ以テ、常ニ適当ノ人物ヲ得ル事能ハス」、しばしば助役が交代することになり、現在は一人が欠員になっているが、適当な名誉助役を得ることが難しいので、一人を有給として人材を博捜(はくそう)したいというものであった。この条例案は可決され、有給助役が選挙されることになった。名誉職助役の報酬は八四円、有給助役の月給八円(年額九六円)であった。
東条村では、助役を増員せず、三〇年一〇月、道籏巳三郎が助役に就任すると、「有給助役ニ関スル条例」を適用して月給六円を支給することになった。給料は、前任者の報酬年額六六円に比して若干増えているが、実費弁償費を勘案すれば、大差はなかった。有給制になったのは、村財政・税収などに難問を抱え、村長・助役・収入役などの交代が多かったことによると思われる。東条村では、二七年四月、収入役と書記が辞任し、村長が書記を、助役が収入役を兼任することになった。九月、道籏巳三郎が収入役に選任されたようであるが、一一月には村長中尾実が辞表を提出し、収入役も予備召集されることになって辞任した。中尾は三四歳、辞職の理由は家事および病気であったが、診断書は「躰格(たいかく)強壮栄養佳良之一男子、生来曽(かつ)テ記憶ス可キ大患ニ罹(かか)リシコトナシ」「神茎(経)性胃弱症ト診断シ」「適当之治療ヲ施ストキハ三週日之経過ニ於テ治癒可致診断候也」というものであった。村会は定員不足で成立しなかったが、収入役が予備召集のため辞任しなければならなかったこともあってか、再召集の上、町村制第八条の辞任理由に該当しないとして、村長の辞任を認めなかった。収入役は、村会で助役が兼任する決議がなされたが、郡役所の承認を得ることができなかったため、村長が推薦する中野邦三郎を選任した。二八年一月、中尾が村長を辞任し、村会で選挙が行われたが、決選投票の結果、中尾と道籏才蔵が同数となり、郡参事会の決議を稟請(りんせい)したところ、中尾が当選者と認められ、留任することになった。同年九月、収入役が辞任し、後任に小村富太郎が選挙された。二九年四月、助役松村民蔵が任期満了で再選されたが、九月に辞任し、後任に道籏才蔵が当選した。三〇年四月には収入役の小村が辞任し、植野常三郎が選任された。
三〇年五月、村会に、「有給助役ニ関スル条例」が提出され、可決している。提案理由は、山間僻陬(へきすう)の地で治政の念が乏しく人材が得にくいこと、貧村であるが土木事務が多く、「各大字個々因習ノ習慣アリテ、或ハ甲乙軋轢(あつれき)ヲ生セントスルノ幣(弊)」があることなどであった。条例は現任助役が任期満了、または退職した時から施行することになっていたが(東条村「村会議案議決議事録綴」)、八月、道籏才蔵が助役を辞し、道籏巳三郎が有給助役に選ばれた。しかし問題は解決しなかったようで、一一月、中尾実が村長を辞し、道籏才蔵が当選したが、就任を辞退したため再選挙が行われ松村民蔵が当選している(富田林市所蔵文書 東条村「村会報告綴」)。