鉄道開設運動

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明治二五年(一八九二)六月、鉄道敷設法が公布された。これは、政府が必要とする鉄道線路を漸次調査し敷設することを目的とするもので、費用は公債で賄うことになっていた。また、三三の予定路線を定め、そのうち幹線鉄道網となる九路線を第一期建設路線として建設を急ぐことになった。第一期建設路線には、大阪から奈良県の高田(現大和高田市)あるいは八木(現橿原市)から五条を経て和歌山に至る路線が含まれていた。それに先だって二五年二月、亀の瀬のトンネルが完成し、大阪鉄道が大阪―奈良間の営業を開始していた。大阪鉄道の王寺―高田間は二四年に開通しており、これによって大阪―高田間も結ばれることになった(『法令全書』)。このような状況の下で、鉄道敷設法の予定路線を大阪―和歌山とするのか高田―和歌山とするのかが大きな問題となったのである。

 二五年一〇月ごろ、田守三郎平・杉山順三・越井醇三・奥谷貞三・青谷亀次・辻米造・佐藤武治郎ら富田林の有力者が中心になって、大阪鉄道の平野(現大阪市平野区)か八尾から富田林・三日市(現河内長野市)を経て紀州橋本(現和歌山県橋本市)に至り、和歌山に通じる鉄道を敷設する計画が立てられた。大阪から和歌山に出るには、大和五条を経由するより距離が短く、石川郡や錦部郡にとっては利益も大きいというのである。この計画は、鉄道は基本的には官営とするべきであるとして、鉄道敷設法による計画路線を誘致しようとするもので、地元選出の代議士東尾平太郎と連絡を取って、帝国議会に働きかけようとしていた。田守のいうところによれば、大阪府知事も府下に鉄道を敷設することに熱心で、計画の実現に尽力してくれるとのことであった。運動費の募金を始めるとともに河内線と名付け、上申書を作成して、一一月一七日、杉山順三の養子謙三が梅川辰治郎と共に上願のため上京している(富田林杉本家文書「日新誌」)。

 二六年二月四・六両日、鉄道会議が開かれ、鉄道敷設法の大阪と和歌山を結ぶ路線計画が問題になった。紀和線(高田―和歌山間)は、延長四五マイル四〇チェーン、工費一九七万三六二一円で、紀泉線(大阪天王寺―和歌山間)は、延長四〇マイル、工費一八五万六〇四八円の予定であった。距離・工事費、いずれも紀泉線の方が有利であり、予想所要時間も、紀和線が二時間二七分、湊町(現大阪市浪速区)からなら三時間五七分を要するのに対し、紀泉線は二時間五分、湊町からでも二時間一四分で、はるかに有利であった。会議でも、紀泉線の経済効果を主張する発言が多かったが、海岸に近い路線は防御に不利であるとする軍事上の理由から紀和線を押す声もあった。採決の結果、一六対七で、高田―和歌山線が採択されることになった(「第一回鉄道会議議事速記録」五・七『明治期鉄道史資料』所収)。

 鉄道会議の結論が出ても、河内線敷設運動は続けられた。二六年三月二〇日過ぎ、富田林村の杉本藤平は、発起人たちから賛同者への加入と寄付金の申込を説得され、三〇円の寄付申込をし、三月二九日には追申書に署名している。追申書には、三日市・天見(現河内長野市)や紀州橋本辺りの人々の署名も多かったようで、貴族院議員の久保田真吾にも依頼し、東尾に追願書を手渡すことになった。四月になると、測量を実施して絵図面を作成し、東尾の斡旋で上京して、しかるべき所に提出したが問題にされなかった。政府の方針は、京都―奈良間か奈良―柘植(つげ)(現三重県阿山郡伊賀町)間を先行し、緊急時の東国鎮台兵の派遣も大阪を経由せず直接和歌山へ輸送する方針をとり、第二期工事として五条から和歌山に至る路線を敷設することになったようである。紀泉線も紀和線も後回しになるとの情報が東尾からもたらされ、富田林村有志が中心になって推進してきた河内線計画は瓦解(がかい)することになった。計画の挫折によって生じた損失を補填するための寄付を求められた杉本は、先の申込金額の半分に当たる一五円を寄付している(「日新誌」)。