河内線計画が挫折してから二か月後、明治二六年(一八九三)七月一四日、柏原停車場から長野までの軽便鉄道敷設の相談会が、富田林村の長春楼で開かれた。資本金二〇万円、五〇円株四〇〇〇株の半分を発起人が引き受け、残りを募集するという計画で、発起人の中心になったのは、田守三郎平・杉山謙二・青谷亀次・辻米造・越井醇三・奥谷貞三・佐藤武治郎ら河内線敷設運動の発起人であった(富田林杉本家文書「日新誌」)。これに出水弥太郎が加わり、政府の承認を得るための運動が行われたようである。出水は、後述するように(本章第三節参照)、前年の第二回総選挙に内務大臣品川弥二郎・内務次官白根專一に擁立されて出馬し、選挙干渉事件まで引き起こしながら東尾に惜敗した人物である。選挙後も品川との関係を深め、二五年一〇月末、品川の河内遊説に同行し、自宅を宿所に提供している。東尾・久保田と連絡を取りながら、河内鉄道誘致に失敗した発起人たちは、出水の中央官界との結びつきを利用しようとしたのである。出水を東京に派遣して政府に働きかけた結果、二七年七月一九日、内々の許可を得、賛同者に調印を求めている。先に一五円の寄付をした杉本は、調印を断り、「発起人之内不平ノ仁もアラン」と記している(「日新誌」)。
政府の内諾を得た発起人たちは、七月二一日、出水弥太郎を代表者として「河陽(かよう)鉄道株式会社創立願」を逓信(ていしん)大臣黒田清隆に提出した(国立公文書館所蔵鉄道院文書)。その趣旨は、私設鉄道条例により河陽鉄道株式会社を設立し、柏原―長野間一二マイルに軽便鉄道を敷設し東西高野(こうや)街道に頼ってきた南河内の旅客・貨物の運輸に充てるというものであった。沿線には柏原・古市(ふるいち)(現羽曳野市)・富田林などの町があり、道明寺天満宮・誉田(こんだ)八幡宮・瀧谷不動(たきだにふどう)・観心寺などの名所旧跡もあって旅客も多く、薪炭・木材・木綿・氷豆腐など大阪に搬出する貨物も多いので、その便益は少なくないと地域の便を強調し、他の幹線に接続することを目的とするものではないので、軽便鉄道が適当であると主張している。鉄道敷設法による鉄道の誘致が不可能になり、地元の資本によるとすれば、軽便鉄道にせざるを得なかったのである。資本金は二五万円、一株五〇円、総計五〇〇〇株として、二〇〇〇株一〇万円を発起人二〇人が引き受けることになっていた。発起人は、表39のとおりであるが、河内線の発起人になっていたのは、青谷亀次だけで、出水の地元である丹南郡が比較的多かった。
氏名 | 住所 | 引受株 | 金額 | 備考 |
---|---|---|---|---|
株 | 円 | |||
出水弥太郎 | 河内国丹南郡平尾村大字平尾38番邸 | 100 | 5,000 | |
石田庄兵衛 | 大阪市東区南本町2丁目20番邸 | 100 | 5,000 | |
本所又寿郎 | 河内国古市郡西浦村大字西浦1番邸 | 100 | 5,000 | |
石田庄七 | 大阪市東区北久太郎町2丁目81番邸 | 100 | 5,000 | * |
橋本善右衛門 | 摂津国東成郡生野村大字林寺17番邸 | 100 | 5,000 | |
青谷亀次 | 河内国石川郡富田林村大字富田林253番邸 | 100 | 5,000 | |
杉山知三郎 | 河内国石川郡大伴村大字山中田1番邸 | 100 | 5,000 | |
木下直治 | 河内国石川郡喜志村大字喜志383番邸 | 100 | 5,000 | |
小山玄松 | 河内国志紀郡柏原村大字柏原153番邸 | 100 | 5,000 | |
杉田良蔵 | 河内国丹南郡平尾村大字菅生41番邸 | 100 | 5,000 | |
末吉平三郎 | 摂津国住吉郡平野郷町大字泥堂129番邸 | 100 | 5,000 | * |
久保田真吾 | 河内国高安郡高安村大字万願寺51番邸 | 100 | 5,000 | |
太田平次 | 河内国丹南郡日置荘村大字西1番邸 | 100 | 5,000 | |
日置善作 | 河内国丹南郡日置荘村大字西50番邸 | 100 | 5,000 | |
吉村杢三郎 | 河内国丹南郡高鷲村大字嶋和泉6番邸 | 100 | 5,000 | |
川端三郎平 | 和泉国大鳥郡湊村355番邸 | 100 | 5,000 | |
泉清助 | 大阪市東区北浜4丁目57番邸 | 100 | 5,000 | |
山口善五郎 | 大阪市東区平野町2丁目110番邸 | 100 | 5,000 | |
渡辺庄助 | 大阪市東区大手通174番邸 | 100 | 5,000 | |
藤本清七 | 大阪市東区高麗橋詰町88番邸 | 100 | 5,000 |
注1)備考欄の*印は、27年12月の発起人に名を連ねていない者である。
2)国立公文書館所蔵鉄道院文書「河陽鉄道株式会社創立願」より作成。
二六年九月八日、出水弥太郎を総代とする河陽鉄道発起人二〇人は、「河陽鉄道線路延長之義ニ付追願」を逓信大臣黒田清隆に提出した。これは、先に出願した鉄道を長野から三日市まで南に二マイル延長したいというものである(鉄道院文書)。三日市は高野街道筋の著名な宿駅で、ここを終点とするのが素志であり、西条川の架橋が困難であると思われたので長野を終点として申請したが、測量の結果、予想の半分ぐらいの工費で架橋できることが判明したというのが、その理由であった。この追願と共に仮定款(かりていかん)を変更し資本金を三〇万円に増額し、さらに一二月一七日、起業目論見書・定款の訂正と発起人の増員を出願した。これによって、発起人は表40のように五一人に増員されたが、大阪市と石川郡の増加が著しい(表41)。石川郡では、田守三郎平・佐藤武治郎・越井醇三・辻米造・奥谷貞三といった河内線の発起人が再び加わることになった。
氏名 | 住所 | 引受株 | 金額 | 備考 |
---|---|---|---|---|
株 | 円 | |||
出水弥太郎 | 河内国丹南郡平尾村大字平尾38番邸 | 100 | 5,000 | |
石田庄兵衛 | 大阪市東区南本町2丁目20番邸 | 100 | 5,000 | |
本所又寿郎 | 河内国古市郡西浦村大字西浦1番邸 | 100 | 5,000 | |
松永寿太郎 | 河内国志紀郡道明寺村大字船橋3番邸 | 100 | 5,000 | * |
橋本善右衛門 | 摂津国東成郡生野村大字林寺37番邸 | 100 | 5,000 | |
青谷亀次 | 河内国石川郡富田林村大字富田林253番邸 | 100 | 5,000 | |
杉山知三郎 | 河内国石川郡大伴村大字山中田1番邸 | 100 | 5,000 | |
木下直治 | 河内国石川郡喜志村大字喜志383番邸 | 50 | 2,500 | |
小山玄松 | 河内国志紀郡柏原村大字柏原153番邸 | 50 | 2,500 | |
杉田良蔵 | 河内国丹南郡平尾村大字菅生41番邸 | 50 | 2,500 | |
橋本尚四郎 | 摂津国東成郡天王寺村大字天王寺3376番邸 | 100 | 5,000 | * |
久保田真吾 | 河内国高安郡高安村大字万願寺51番邸 | 100 | 5,000 | |
川端三郎平 | 和泉国大鳥郡湊村355番邸 | 100 | 5,000 | |
太田平次 | 河内国丹南郡日置荘村大字西1番邸 | 100 | 5,000 | |
泉清助 | 大阪市東区北浜4丁目57番邸 | 100 | 5,000 | |
日置善作 | 河内国丹南郡日置荘村大字西50番邸 | 50 | 2,500 | |
吉村杢三郎 | 河内国丹南郡高鷲村大字嶋泉6番邸 | 50 | 2,500 | |
山口善五郎 | 大阪市東区平野町2丁目110番邸 | 50 | 2,500 | |
渡辺庄助 | 大阪市東区大手通1丁目74番邸 | 50 | 2,500 | |
藤本清七 | 大阪市東区高麗橋詰町88番邸 | 100 | 5,000 | |
下倉仲 | 大阪市北区堂島浜通1丁目263番邸 | 100 | 5,000 | * |
松本勝三郎 | 河内国志紀郡柏原村大字柏原155番邸 | 100 | 5,000 | * |
田守三郎平 | 河内国石川郡富田林村大字富田林251番邸 | 100 | 5,000 | * |
佐藤武治郎 | 河内国石川郡富田林村大字富田林415番邸 | 100 | 5,000 | * |
武部三朗 | 河内国石川郡赤阪村大字森屋80番邸 | 100 | 5,000 | * |
越井醇三 | 河内国石川郡富田林村大字富田林504番邸 | 100 | 5,000 | * |
辻米造 | 河内国石川郡富田林村大字富田林377番邸 | 100 | 5,000 | * |
奥谷貞三 | 河内国石川郡富田林村大字富田林811番邸 | 100 | 5,000 | * |
越井弥太郎 | 大阪市東区平野町3丁目7番邸 | 100 | 5,000 | * |
矢野佐太郎 | 河内国古市郡古市村大字誉田20番邸 | 100 | 5,000 | * |
石田宇兵衛 | 大阪市北区堂島中1丁目236番邸 | 100 | 5,000 | * |
阿部彦太郎 | 大阪市北区堂島浜通2丁目15番邸 | 100 | 5,000 | * |
岡崎栄次郎 | 大阪市東区博労町2丁目53番邸 | 100 | 5,000 | * |
今西彦三郎 | 大阪市東区久太郎町2丁目89番邸 | 100 | 5,000 | * |
山田市郎兵衛 | 大阪市東区南久太郎町2丁目9番邸 | 100 | 5,000 | * |
伊藤九兵衛 | 大阪市東区南久太郎町2丁目112番邸 | 100 | 5,000 | * |
糸若緑 | 大阪府丹南郡埴生村大字向野101番邸 | 100 | 5,000 | * |
山上八郎 | 大阪府丹南郡埴生村大字向野12番邸 | 100 | 5,000 | * |
小泉国松 | 大阪市西区京町堀上通5丁目45番地 | 100 | 5,000 | * |
谷澤治良平 | 大阪市北区堂島浜通1丁目260番邸 | 100 | 5,000 | * |
檀野藤吾 | 河内国八上郡八下村大字大饗1番邸 | 100 | 5,000 | * |
仲村一郎 | 河内国石川郡富田林村大字富田林65番邸 | 100 | 5,000 | * |
高橋薫 | 河内国石川郡中村大字神山24番邸 | 100 | 5,000 | * |
長澤頼三 | 河内国石川郡中村大字中59番邸 | 100 | 5,000 | * |
馬場三右衛門 | 摂津国島下郡玉櫛村大字真砂27番邸 | 100 | 5,000 | * |
高井幸三 | 摂津国島上郡如是村大字五百住8番邸 | 100 | 500 | * |
森田米蔵 | 河内国高安郡中高安村大字万願寺76番地 | 100 | 5,000 | * |
山澤保太郎 | 河内国若江郡小阪村大字下小阪21番邸 | 100 | 5,000 | * |
山下秀實 | 摂津国東成郡東平野町大字東高津129番邸 | 100 | 5,000 | * |
植田重太郎 | 河内国若江郡意岐部村大字御厨73番邸 | 100 | 5,000 | * |
高橋康太郎 | 大阪市南区鰻谷東ノ町38番邸 | 100 | 5,000 | * |
注1)備考欄の*印は、新たに加わった者。
2)鉄道院文書「河陽鉄道株式会社定款中変更之義ニ付追願」より作成。
郡区名 | 26年7月 | 27年12月 | |
---|---|---|---|
人 | 人 | ||
河内国 | 石川郡 | 3 | 12 |
古市郡 | 1 | 2 | |
志紀郡 | 1 | 3 | |
丹南郡 | 5 | 7 | |
八上郡 | 1 | ||
若江郡 | 2 | ||
高安郡 | 1 | 2 | |
摂津国 | 東成郡 | 1 | 3 |
住吉郡 | 1 | ||
島下郡 | 2 | ||
大阪市 | 東区 | 6 | 10 |
西区 | 1 | ||
南区 | 1 | ||
北区 | 4 |
注)鉄道院文書より作成。
そのころ、堺市から長野・三日市を経て橋本に至る鉄道を敷設する堺橋鉄道設立の計画が立てられていた。「鉄道会社創立之義ニ付願」が提出されるのは二六年一〇月七日のことであるが、それに先だって九月一九日には、発起人総代北田豊三郎が大阪府知事に出願準備のため「線路測量御認可御願」を提出している(南海電気鉄道本社所蔵文書)。堺橋鉄道は、発起人は北田豊三郎外七四人、資本金一五〇万円という大規模なもので、二七年二月に高野鉄道と改称する。逓信省では、長野三日市間が河陽鉄道と重複するため、いったん不許可の方針を決めたようであるが、鉄道会議の調査で河陽鉄道を妨害するものではないとの結論になり、二七年六月一九日、両社とも許可するという諮問案を鉄道会議に提出した。会議では、経営的に両立は無理であり結論を出すのを延期してはどうかという意見も出されたが、最終的には諮問案を了承することになった。なお、河陽鉄道については、政府が必要と認めた時は、軌道の幅員を二フィート九インチから三フィート六インチ(普通鉄道)に改めるという付帯条件が付せられていた(「第四回鉄道会議議事速記録」一二『明治期鉄道史資料』所収)。
二七年九月七日、高野鉄道に仮免許が下付されるが、河陽鉄道の仮免許は下付されなかった。二八年三月一四日、発起人総代出水弥太郎は、「河陽鉄道仮免状御下付之義ニ付追願」(鉄道院文書)を逓信大臣に提出し、昨年一二月一七日に起業目論見書・定款を改正し、「其後御下命之次第も即々其都度訂正相済居候、依テハ最早(もはや)仮免状御下付可相成ト日々相待居候」と述べており、遅延の事情をうかがわせる。一〇月四日、仮免状が下付され、一一月七日に大阪平野町の堺卯楼で創立総会が開かれた。当日までに六〇〇〇株の株式申込があり、その中から役員が選出され、取締役に出水弥太郎(社長)・泉清助・太田平次・本所又寿郎・菅野又吉、監査役に岡橋治助・阿部彦太郎・田守三郎平が就任した。一一月二二日、「河陽鉄道株式会社設立免許ノ義ニ付申請」が逓信大臣に提出され(鉄道院文書)、一二月一〇日に鉄道会議に諮詢(しじゅん)され、「柏原停車場ヨリ三日市ニ至ル軽便鉄道デ御座イマシテ、全ク其ノ一部中間ノ需用ヲ目的ト致シマスノデ、他ノ線路トノ関係ニ於キマシテハ別ニ競争ト云フ嫌ハ曾(かつ)テ有リマセヌ」として多数で可決された(「第七回鉄道会議議事速記録」五『明治期鉄道史資料』所収)。二九年二月四日に免許状が下付され、三一年三月一〇日柏原―古市間の竣工届を提出した。三月二三日には開業免状が下付されて二四日から営業を開始した(富田林南葛原家文書「河陽鉄道株式会社第五回報告」)。起工に先だち、軌道幅を三フィート六インチに改めることを出願して認可を得ており、河陽鉄道は、軽便鉄道ではなく普通鉄道として営業を開始している。河陽鉄道は、大阪鉄道からの乗り入れを考えていたようで、軌道幅の変更は兼ねてからの計画であったと思われる(里上龍平「河陽鉄道の創業―南河内地方における近代交通の黎明―」『藤井寺市史紀要』三)。さらに三一年四月一日には古市―富田林間の竣工届を提出し、一四日から富田林までの運輸を開始している。
開業当初は、道明寺天満宮の菜種御供祭があり、大阪鉄道湊町から道明寺(現藤井寺市)まで乗り入れるなどして乗客が多く営業成績は良好であった。しかし、富田林まで開通したころには、「世上一般不景気ノ極ニ陥リ」「旅客貨物共ニ之ヲ利用スルニ親マザルト二者各其因トナリ、営業上頗(すこぶ)ル困難ヲ感シタリ」という状況であった。四月二九日、通常総会に引き続いて臨時総会を開き資本金三〇万円を六〇万円に増資するとともに、株券額面も五〇円を一〇〇円に改め、六月には取締を無報酬とし、四課を二課に統廃合して社員を減員して経費の削減に努め、七月には事務所を大阪から富田林に移転した(近代Ⅷの三「河陽鉄道株式会社第六回報告」)。