河南鉄道の創設

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明治三一年(一八九八)一〇月一八日と二九日に河陽鉄道は臨時株主総会を開き、「財政整理ハ尋常ノ手段ニテハ到底功ヲ奏スルコト能ハサルヲ以テ」新会社を組織し、資産・負債をすべて譲渡して解散することを決議した。河陽鉄道の株主は、なるべく新会社の発起人となること、持株の範囲内で新会社の株式を引き受ける権利があることとし、以後の手続は片岡直温(かたおかなおはる)に一任することになった(国立公文書館所蔵鉄道院文書)。片岡は、日本生命の副社長で代議士であったが、大阪鉄道の有力な株主であり、大阪鉄道と関西鉄道との合併にも重要な役割を果たした(「大阪鉄道略歴」『明治期鉄道史資料』二(3)―Ⅰ)。一一月五日、河南(かなん)鉄道創立発起人が「河南鉄道株式会社創立発起認可申請書」を逓信大臣林有造に提出するが、これには河陽鉄道の全財産を譲渡することが株主総会で決議されたという河陽鉄道社長出水弥太郎の副申書が添えられていた。発起人は表42にみられる一〇人で、河陽鉄道の取締役・監査役が、田守三郎平以外はすべて名を連ねている。その他の者も阿部市蔵を除く三人は、河陽鉄道の株主であった。一〇人中七人が大阪の実業家で、河内在住者は三人だけで、持株も五〇株にすぎず、石川郡出身者はいなかった。

表42 河南鉄道設立発起人
氏名 住所 引受株 金額 河陽鉄道
岡橋治助 大阪市東区船越町2丁目104番邸 400 20,000 監査役
村上嘉兵衛 大阪市東区道修町5丁目21番邸 400 20,000 株主
阪上新治郎 大阪市西区京町堀上通5丁目92番邸 100 5,000 取締役
阿部市蔵 大阪市西区土佐堀1丁目20番邸 100 5,000
越井弥太郎 大阪市東区平野3丁目7番邸 100 5,000 株主
泉清助 大阪市東区北浜4丁目57番邸 100 5,000 取締役
菅野元吉 大阪市東区平野1丁目41番邸 100 5,000 取締役
小山玄松 河内国志紀郡柏原村大字柏原153番邸 50 2,500 株主
本所又寿郎 河内国古市郡西浦村大字西浦1番邸 50 2,500 取締役
出水弥太郎 河内国丹南郡平尾村大字平尾38番邸 50 2,500 社長

注1)阪上新治郎は、太田平次辞任の後任である。
 2)鉄道院文書より作成。

 仮定款によれば、柏原村大阪鉄道停車場から富田林を経て長野村に至る軽便鉄道を敷設することになっており、長野―三日市間は計画に入っていない。軌道幅は、最初から三フィート六インチで、創立総会で定款から軽便の二字を削除している。本社は富田林に置き、資本金は三〇万円で六〇〇〇株に分かち、一株の額面は五〇円であった。三二年三月の株式申込書によれば、九一人六〇〇〇株のうち、大阪市内が五九人四八三〇株と大部分を占め、大阪府下は一三人五一〇株で南河内郡は一一人四九〇株にすぎず、富田林は杉山健二・越井醇三各一〇〇株、青谷東寿三〇株だけであった。三一年一二月一日仮免状が下付され、三二年一月二三日に大阪商業会議所で創立総会が開かれた。社長には小山玄松が選ばれ、取締役には阪上新治郎・泉清助・村上嘉兵衛・越井喜代蔵・本所又寿郎・出水弥太郎・越井醇三・香川鋭太郎が、監査役には岡橋治助・阿部市蔵・菅野元吉が選出された(鉄道院文書)。四月七日免許状が下付され、五月一〇日に河陽鉄道が解散したのを受けて一一日から柏原―富田林間の営業を開始した。富田林―長野間の延長工事は三四年一一月に着工し、三五年三月二五日に富田林―滝谷不動間が開通、一二月一二日に長野まで開通した(『日本鉄道史』中)。

写真43 粟ヶ池付近を走る河南鉄道の汽車(明治末期、葛原家所蔵)