鉄道の発展につれて、交通手段としての道路の地位は低下した。明治六年(一八七三)の河港道路修築規則、九年の国道・府県道・里道の制の制定など、明治初年には、政府は道路行政に積極的に取り組んだが、一三年の地方税規則改正以後、その負担は地方に転嫁された。明治二〇年代になると、政府は、道路行政の基本法を制定しようと何度か試みたが実現せず、大正八年(一九一九)の道路法の制定まで持ち越されることになった(渡辺洋三「河川法・道路法」『日本近代法発達史』六)。しかし、地方にとって道路は、なお重要な交通運輸の手段であり、その維持修復は、大きな課題になっていた。
千早街道は、竹之内街道の八上(やかみ)郡金岡村大字長曽根(現堺市)から富田林を経て千早峠を越え、大和五条に至る街道で、近世以来、堺・南河内と大和五条を結ぶ重要な交通路であった。沿道村々は、明治一六年以来、修築費について大阪府に陳情を繰り返してきたようであるが、二二年一〇月三〇日、八下郡金岡、丹南郡平尾・黒山(ともに現美原町)、石川郡新堂・富田林・大伴・赤阪(現千早赤阪村)・中(現河南町)・千早(現千早赤阪村)の九か村が、富田林村長仲村一郎を総代として大阪府に千早街道修築費地方費支弁の請願書を提出した(富田林仲村家文書「千早街道延長請願一件」)。この運動は功を奏し、二四年度から千早街道は地方費支弁の部に編入された。ところが、大阪府の定めた内規基準によって、二五年度から富田林村東高野街道交差点以西を富田林街道と呼んで地方費支弁とし、そこから千早峠までは地方費補助に組み込まれることになった。内規基準は、府道を地方費支弁、郡道を地方費補助、村道を村費負担とするものである。府道は、第一項他府県に通じるものと第二項府内著名の地を接続するものとされた。千早街道は大和五条に通じているが、赤阪村大字森屋から千早峠に至る道路は険阻(けんそ)な山道が多く、第一項府道と認定されず、富田林村東高野街道交差点以東は郡道に編入され、府会郡部会もこれを認めたようである(同)。
沿道諸村は、他の街道諸村と連絡を取って府会議員に働きかけることになった。府会郡部会は、二四年一二月一〇日、「府下郡部ニ於ケル玉手街道外二十四街道ヲ新ニ土木費中ニ編入セラレンコトヲ乞フノ建議」を可決した。これは、府下郡部の二五街道が重要な街道で、地方費補助ではなく地方費負担とするべきであるから、更正案を作成して郡部会に提案せよというものであった(『大阪府会史』一)。二五街道には「水越(みずこし)街道」が含まれていた。水越街道は、千早街道の赤阪村大字森屋から分かれ水越峠を経て大和の御所(ごせ)に出る街道であるが、ここでは水越街道に森屋から富田林までの千早街道と富田林街道を併せたものとしている。これと前後して富田林・大伴・河内・中・赤阪五か村が大阪府知事に「地方税支弁補助ニ係ル千早街道并水越街道路線及名称変更ノ義ニ付請願」を提出し、有志醵金と村費をもって水越街道の坂道を改修するので、竹之内街道分岐点から水越街道を含めて富田林街道と改称し、森屋から千早峠までを千早街道と呼ぶことを請願している。二四年一二月一八日、仲村一郎は、総代として府会議事堂で府会議員西條與三郎らと会談し、地方費支弁となるべき玉手・納屋・高槻街道沿道諸村と連合し、関係六郡長を同伴して知事に具申することを申し合わせ、富田林郡長(石川外六郡の郡長)弘道輔に会って協力を依頼している(「千早街道延長請願一件」)。西條は、錦郡郡長野村の出身で、二六年三月には郡部会常置委員に就任している。当時、府会は知事と激しく対立しており、二五年一二月には内務大臣に西村信道知事と警部長の更迭を求める建議案を可決したため会議の中止を命じられている。知事不信任の直接の理由は、第二回総選挙の選挙干渉であったが、建議は、知事が就任以来、府会を軽視し府政が停滞して「土木事業ヲ始メ管内必要ノ事業ノ進捗セサルコト本会アリテ以来未タ曾テ見サル所ナリ」と指摘している。沿道諸村の運動は、こうした府会と連動していたのである。土木事業の停滞を争点とする知事と府会の対立は、大阪府に限らず、京都府などでもみられた(飯塚一幸「明治中後期の知事と議会」『日本史研究』四八八)。
二五年、孝子(きょうし)街道ほか五街道が地方費補助道路として一〇分の九補助に認定されたにもかかわらず、千早街道は一〇分の五補助にとどまった。二六年六月、富田林・大伴・中・赤阪・千早五か村は、補助率訂正の請願をし、一一月にも関係諸村が集まって協議している。一二月一五日、府会郡部会も「郡部道路ニ関スル工費ヲ皆地方税支弁若(もし)クハ補助ノ部ニ編入及ヒ補助歩合変更ヲ希望スル建議」を可決するが、千早街道は一〇分の八、水越街道は一〇分の七に変更することになっていた(『大阪府会史』一)。これを受け、二七年一月、富田林村外五か村は、千早・水越街道の補助率を一〇分の九に引き上げることを請願したが(「千早街道延長請願一件」)、四月九日には、補助費引上げの方針を撤回し、地方費支弁に編入することを請願した(近代Ⅷの四「地方税支弁編入請願」)。請願書は、両街道の重要性を資料を挙げて主張し、さらに敷設中の南和鉄道の停車場が御所・五条に設置の予定であることを付け加えている。また奈良県側にも働きかけ、六月には葛上(かつじょう)郡吐田郷村大字開屋(現奈良県御所市)の有志者が、奈良県に水越峠以東の県道編入を請願した(近代Ⅷの四)。大阪府は、富田林から水越峠までの地方費支弁の方針を固め土木局に上申したようで、土木局は奈良県に照会をした。奈良県はこれに対して、南和鉄道・河陽鉄道・堺橋鉄道が開通すれば交通運輸に変動があると思われるので、その時は仮定県道に編入する方針であると回答している(「千早街道延長請願一件」)。こうして富田林から水越峠に至る街道が富田林街道に編入され仮定県道となった。一二月、沿道村長は連名で、賛成してくれた南河内郡以外の選出の府会議員一一人に礼状を送っている(同)。