日清戦争後の起業熱の勃興は南河内地方にも及び、各地に銀行が設立された。富田林には、すでに明治二六年(一八九三)七月に堺銀行富田林支店が開設されていたが(『明治三十年大坂府南河内郡役所統計書』)、二八年四月、地元の資産家一六人が出資して合資会社富田林銀行の設立を出願した。資本金は五万円、その出資額は表43のとおりで、長野村の西條與三郎、喜志村の木下喜逸以外は、すべて富田林村の住民であった(近代Ⅵの一四「合資会社富田林銀行契約書」)。有限責任出資者三人が得業務担当社員となり、互選によって田守三郎平が頭取に就任した。富田林村大字富田林に本店、錦部郡長野村大字長野に長野支店を設け、二九年一月一八日、古市村大字古市に古市支店を設置した。同年六月、社名を合資会社富銀行と改めたが、七月、株式会社富田林銀行設立にともない発展的解消を遂げた(福山昭『明治後期の地方銀行―河内地方を中心として―』市史研究紀要一)。株式会社富田林銀行は、二九年六月二八日に創立株主総会を開き、七月三日設立願書を提出して二一日に認可を受けた。資本金二〇万円、株式四〇〇〇株で、当初の株主は一〇五人であったが、合資会社富田林銀行の株主はすべて五〇株以上の株主になっており、頭取・支配人・取締役などの役員にも就任していた(表44)(富田林南葛原家文書「第一期営業報告書」)。
氏名 | 住所 | 出資金 | 責任 |
---|---|---|---|
円 | |||
杉山健二 | 石川郡富田林村 | 7,000 | 無限 |
田守三郎平 | 石川郡富田林村 | 5,000 | 無限 |
西條與三郎 | 錦部郡長野村 | 5,000 | 無限 |
杉山団郎 | 石川郡富田林村 | 5,000 | 有限 |
佐藤武治郎 | 石川郡富田林村 | 5,000 | 有限 |
越井醇三 | 石川郡富田林村 | 5,000 | 有限 |
奥谷伊平 | 石川郡富田林村 | 3,000 | 有限 |
奥谷伊平次 | 石川郡富田林村 | 3,000 | 有限 |
杉本藤平 | 石川郡富田林村 | 3,000 | 有限 |
杉田善作 | 石川郡富田林村 | 2,000 | 有限 |
石田紋次郎 | 石川郡富田林村 | 2,000 | 有限 |
木下喜逸 | 石川郡喜志村 | 2,000 | 有限 |
橋本忠平 | 石川郡富田林村 | 1,000 | 有限 |
葛原三治 | 石川郡富田林村 | 1,000 | 有限 |
奥谷貞三 | 石川郡富田林村 | 500 | 有限 |
辻米造 | 石川郡富田林村 | 500 | 有限 |
注)近代Ⅵの一四「合資会社富田林銀行契約書」から作成。
氏名 | 住所 | 持株数 | 合資会社富田林銀行株 | 役員 |
---|---|---|---|---|
杉山健二 | 富田林町 | 341 | 700 | 取締役・支配人 |
田守三郎平 | 富田林町 | 193 | 500 | 頭取 |
越井醇三 | 富田林町 | 193 | 500 | |
西條與三郎 | 長野村 | 193 | 500 | 取締役 |
佐藤武治郎 | 富田林町 | 193 | 500 | |
木下喜逸 | 喜志村 | 173 | 200 | 監査役 |
奥谷伊平 | 富田林町 | 145 | 300 | |
西谷篤三郎 | 110 | 取締役 | ||
奥谷伊平次 | 富田林町 | 100 | 300 | |
谷要 | 100 | |||
越井弥太郎 | 東区 | 100 | ||
杉山団郎 | 富田林町 | 100 | 500 | |
杉本藤平 | 富田林町 | 100 | 300 | |
杉田善作 | 富田林町 | 100 | 200 | |
高田清三郎 | 83 | 取締役 | ||
石田紋治郎 | 富田林町 | 66 | 200 | |
葛原三治 | 富田林町 | 60 | 100 | |
阪井種治 | 喜志村 | 60 | ||
橋本忠平 | 富田林町 | 50 | 100 | |
西谷岩造 | 50 | |||
奥谷貞三 | 富田林町 | 50 | 50 | |
吉年善作 | 長野村 | 50 | 監査役 | |
田守政太郎 | 富田林町 | 50 | ||
辻米造 | 富田林町 | 50 | 50 | |
矢野誠治 | (古市) | 50 | ||
松永森太郎 | 道明寺村 | 50 | ||
松村達三郎 | (高鷲) | 50 | 監査役 | |
岸竜次郎 | 50 | |||
宮本義徳 | 50 | |||
南坊城良興 | 50 | |||
清水通太郎 | 50 | |||
真銅和太郎 | (駒ケ谷) | 50 | ||
小計 | 32 | 3,110 |
注)富田林南葛原家文書「第一期営業報告書」より作成。
富田林銀行の資本構成は、諸預り金が平均七〇%強を占め圧倒的に多く、払込資本が二七%弱でこれに次いでいる(福山前掲論文 表14)。預り金は、三〇年代に入ると不況の影響で減少、停滞するが、三〇年代中ごろから漸増(ぜんぞう)し、日露戦争を契機に急増する。その中では、貯金性預金である小口当座預金が六〇%を超え、しかも漸増傾向がみられるのに対して、営業用預金の当座預金は一五%に満たず、減少傾向を示している。定期預金は、一二%前後で停滞している(同表15)。資本運用は、貸付金が多くて開業以来貸出超過であったが、三七年以後は解消し、預金銀行的性格を強めるようになった(同表17)。収益源は貸付金利息が中心で、割引料と合わせると九〇%を上回り、支出は、支払利息が七〇%を占めていた。総収入と総支出の差額である純益金は、資金規模の拡大に比しては伸びず、停滞している(同表19)。
日清戦争後の好景気は一時的なものにすぎず、二九年には反動を来たし、破綻する銀行も多かった。富田林銀行も影響を受けたが、河陽鉄道の用地買収などによって金融の道が開け、預金も漸増して「地方ノ状景自ラ余裕アルヲ見ルベシ」(「第一期営業報告書」)ということになった。三一年には、前年の不作、当年の米価の下落のため地方金融が逼迫して営業を圧迫したが、収益はそれほど影響を受けず切り抜けることができた。三三年五月の義和団事件は、不況に拍車をかけた。株式の暴落と金融の逼迫は、大阪府下の地方銀行にも危機をもたらした。堺の北村銀行をはじめ多くの銀行が支払い停止に陥り、河内の地方銀行でも取り付け騒ぎが起こった。富田林銀行も三四年四月、「当行柏原支店ハ急劇ナル預金引出ノ災厄ニ遭遇シ、続テ古市支店ニ波及シタリシモ、幸ニシテ無事防止スルヲ得タリ、従テ為替取引ノ如キ一時取組停止ヲ余儀ナクセシメタリキ」(富田林南葛原家文書「第十期営業報告書」)という状況であったが、利益を犠牲にして専ら貸金の回収を図り、何とか乗り切った。その後も不況は慢性的に続くが、富田林銀行は、純益金を伸ばすことはできないものの、順調に資金規模を拡大し、南河内郡の中心的銀行として存続することになる。(この項は、主として福山昭『明治後期の地方銀行―河内地方を中心として―』市史研究紀要一によった。)