明治二三年(一八九〇)八月、政府は、比較的零細な貯蓄性貯金を吸収する金融機関である貯蓄銀行の健全化を図るため、貯蓄銀行条例を公布したが、業者の反対が強く、二八年三月、これを改正して資金運用制限を撤廃し、貯金払戻準備を緩和した。この結果、貯蓄銀行の急増を招くことになり、一〇月六日には株式会社浪花貯蓄銀行富田林支店が開業した。浪花貯蓄銀行は、「公衆ノ為メ小額ノ金銭ヲ預リ複利ノ方法ニ依リ其預リ金ノ増殖ヲ図ルヲ以テ目的トス」(富田林仲村家文書「株式会社浪花貯蓄銀行仮定款」)るもので、五月に創業総会を開いて認可を申請し、一〇月一日に西成郡木津村(現大阪市浪速区)で創業した。株主五九人中、西成郡西浜町(同)の一八人を筆頭に、木津村・川崎村(現大阪市北区)・難波村(現大阪市中央・浪速区)など西成郡住民が三七人と圧倒的多数を占め、河内は富田林町の仲村一郎と高安郡高安村(現八尾市)の久保田真吾だけであった。しかし、表45にみられるように、預金高は富田林支店が本店を上回っていた(富田林仲村家文書「第壱期明治廿八年自十月至十二月営業報告書」)。ところが三〇年五月一六日、浪花貯蓄銀行は臨時株主総会を開き、富田林支店の廃止を決議する(近代Ⅵの一七「浪花貯蓄銀行富田林支店廃止決議」)。廃止の理由は不明であるが、株式会社河内貯金銀行の創設と関係があったと思われる。
本店 | 富田林支店 | 合計 | |
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円 | 円 | 円 | |
当期預高 | 8935.923 | 9545.989 | 18481.912 |
当期払戻高 | 4702.629 | 4412.290 | 9114.919 |
現預高 | 4233.294 | 5133.699 | 9366.993 |
注)富田林仲村家文書「第壱期営業報告書」より作成。
河内貯金銀行は、明治三〇年三月一二日に発起認可を申請した。発起人は、表46にみられるように、すべて富田林近隣の資産家であった。資本金五万円で二五〇〇株に分け、一株二〇円として、発起人一一人が一〇〇株二〇〇〇円ずつを分担し、残り一四〇〇株を募集することになっていたが、まもなく「地方人賛成株」で満額になったので一般の募集を行わないことにしている。しかし認可は遅れ、浪花貯蓄銀行富田林支店が廃止が決まると五月一九日、「当地方ニハ貯蓄銀行ノ必要ヲ公衆ニ感シ居候」と、認可を追願している。その後も仮規約の修正をするなどして申請を繰り返して認可を得、八月一六日に富田林御坊で創立総会を開いた(京都大学総合博物館所蔵杉山家文書「株式会社河内貯金銀行創立一件綴」)。九月一三日、大蔵省の設立認可を得て、一〇月一七日に本店の営業を開始し、一一月一〇日までに順次、狭山支店・三日市支店・千早支店の営業を開始した(富田林仲村家文書「第一期営業報告書」)。
氏名 | 住所 | 引受株 | 金額 | 役職 |
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株 | 円 | |||
仲村一郎 | 南河内郡富田林町大字富田林 | 100 | 2,000 | 取締役 |
杉山団郎 | 南河内郡富田林町大字富田林 | 100 | 2,000 | 頭取 |
日置善作 | 南河内郡日置荘村大字西 | 100 | 2,000 | 取締役 |
道田健造 | 南河内郡千早村大字吉年 | 100 | 2,000 | 監査役 |
高橋悦治 | 南河内郡中村大字神山 | 100 | 2,000 | |
福田辰造 | 南河内郡白木村大字白木 | 100 | 2,000 | |
丸山貞三郎 | 南河内郡白木村大字加納 | 100 | 2,000 | |
葛田茂一 | 南河内郡白木村大字白木 | 100 | 2,000 | |
浅野庄太郎 | 南河内郡中村大字寛弘寺 | 100 | 2,000 | |
浅川信太郎 | 南河内郡廿山村大字甲田 | 100 | 2,000 | 監査役 |
佐藤武治郎 | 南河内郡富田林町大字富田林 | 100 | 2,000 |
注)京都大学総合博物館所蔵杉山家文書「株式会社河内貯金銀行創立一件綴」より作成。
創業の年は二か月だけであったが、貯蓄預金の総額は二万一五九六円余に達した。しかし、創業費が嵩(かさ)み、総益金八二〇円六二銭三厘に対して総損金は二一八四円三六銭四厘に上り、一三六三円七四銭一厘の損失となった(同)。三一年前期も「世ノ不景気ニ伴ヒ金融逼迫シ事業挙ラズ、経済界ノ沈淪(ちんりん)スルノミナレハ貯蓄預金ニ影響ヲ及ホシ、前期ニ比シテ僅(わずか)ニ百分ノ四十以上ナル預金増加ヲ見ルマテナリシヲ以テ、第一期ノ損失金ヲ償フコト不能」(同「第二期営業報告書」)という状況であった。三四年四月の取付け騒動は乗り切ったが、預金の回収は困難になり前年度より減少した。第八期(三四年前期)の損益は一八四円二二銭七厘の益金があり、繰越金八八円一〇銭九厘を加えると二七二円三三銭六厘の黒字であった。ところが、抵当に株券・国債証券が多く、公債の時価の減損金が四七五円六五銭に上り、二〇三円三一銭四厘の欠損となった(同「第八期営業報告書」)。そのため営業資金にも差し支え、八月七日、臨時株主総会を開いて任意解散することになった(『大阪朝日新聞』明治34・8・8)。
明治二九年四月一日、錦郡村の田中林作が田中銀行を創立した。酒造業や地主経営による田中家の遊休資金の運用を図るための「個人銀行」で、資本金は七〇〇〇円であったが、三〇年に一万円に増資している。預り金が資本金を上回り、三〇年の預り金は三万二二五五円余に達し、その後も順調に増加している。その中で小口当座預金が比率で六〇%を超え、営業用預金の当座預金は少なく、三一年以後は一〇%に満たない。資本運用は、手形割引・貸付金の比率が高く、当座貸出金が一〇%前後であったが、三四年に手形割引が〇・五%と急減し三五年以後皆無となり、貸付金が九〇%を超えるようになった。収益源は貸付金利息が中心で、平均して六七%を占め、支出は、支払利息が七〇%を占めていた。純利率は低く、平均すれば一・二%にすぎなかった。三四年の不況は乗り切ったが、三五年に利率を三厘引き下げたためか三六年には預り金が急減し、純益金も激減して、三七年には廃業するに至った。(田中銀行については、小松和生「明治三〇年代における地主銀行経営―大阪府南河内郡・田中銀行資料の紹介―」『大阪大学経済学』19―2によった。)