河内木綿の改良

192 ~ 194

明治二一年(一八八八)三月二八日の『大阪日報』は、「近来各地方に続々紡績所の設立あれば、明年春を迎るころは製糸の業盛んに起り、繰綿の需要著しく増加すべければ、本年内地に収穫する所の綿花にては到底引足らずして、支那綿の輸入を仰ぐに至る可しと云へり」と、紡績業の発展を伝えている。河内木綿は、元来、手紡(てつむぎ)績紡(地糸)のみを用いていたが、このころには半唐(はんから)紡績(経輸入糸・緯和糸)が半ばを占めるようになっていた。それでも安価な紡績綿に押されて不振であった。杉本藤平は、大阪府勧業課の木綿景況調査に対して、「都而(すべて)世の中浅ハカニ相成、品物之強弱ニ頓着セス只表向美成品流行」するのが原因であるとして、将来の見込は立たないと答えている(富田林杉本家文書「日新誌」)。木綿業者は、尺幅の狭隘(きょうあい)が一因であるとして、その改良を産地荷主に働きかけたが効果が上がらないので、二一年五月八日、大阪府に出願して産地管理官庁への照会を依頼している(『大阪日報』明治21・5・9)。

 二三年、田守三郎平が同業組合規則をもって巾九寸二、三分、総丈五丈七尺と定めることを提案している(近代Ⅵの八)。二四年になると尺幅改良の動きは具体化し、三月八日、丹南郡野田村(現堺市)の木綿商が富田林を訪れ相談をしており(「日新誌」)、四月になると、南河内の同業者の会合を開くことになり、呼びかけの回章の草案も作られた(近代Ⅵの九)。八月には、野田村の業者とも相談して二五日に富田林村桐徳で集会を開くことが決まり、二四日に田守・杉本・北野安兵衛の三人が郡役所に届け出た(「日新誌」)。当日は丹南郡一〇人余、富田林三人、その他一七人が集まり、ほとんどが改良に賛成であったが、丹南郡の平尾組や喜志が参加せず、その後、富田林でも異論が出て、簡単にはまとまらなかったようである(同)。九月一八日、富田林の三人に青谷亀次が加わり、合議して総丈を五丈六尺とすることで合意し、二五日に郡役所へ部内の同業者を召集して合議することになった(同)。そのころ、河内木綿業者三〇〇人余の中から委員を選出し、渋川郡久宝寺(きゅうほうじ)(現八尾市)に会して組合を結成し規約を定める相談をしている(『大阪朝日新聞』明治24・9・22)。

 その後の経過は不明であるが、二六年四月一〇日、郡役所で総丈五丈六尺とする協議が行われ、五月になると規約書に捺印を求めている(「日新誌」)。しかし、二七年一月二一日、「日新誌」は、「漸々(ようよう)河内木綿取引猥(みだり)ニ相成、江州問屋権無ク成、夫是申合談篤(とく)と勘考可致事」と述べており、規約は制定されなかったようである。日清戦後の二九年九月二一日、旧石川・錦部・古市郡の四三人が合議して「河南木綿業組合規約」を制定し、三〇年四月一日に大阪府の認可を受けた。これによって、白木綿・長野木綿・足袋表地の幅尺・重量などが定められ、合格品には検印を捺し、違反者に対する罰則も定められた。ちなみに、白木綿の総丈は五丈四尺四寸以上と定められている(近代Ⅵの三)。組合では、四月二八日、富田林町の桐徳で総会を開き規約書を配布するとともに、議員の選出を行ったようで、表47のように取締人・議員を郡長に届け出ている(富田林杉本家文書「河南木綿商組合書類」)。

写真45 明治29年「河南木綿業組合規約」(杉本家文書)
表47 河南木綿商組合取締人・議員
役職 氏名 住所
正取締人 北野安兵衛 富田林町
副取締人 杉本藤平
議員 和田長平
北野武三郎
北野豊吉
和田亀太郎
東尾勇治郎 市新野村大字市村
岡田健造 大伴村大字南大伴
魚谷作治郎 石川村大字大ケ塚
谷野常松
田中寅造 彼方村大字板持
山本寅吉 喜志村大字喜志

注)富田林杉本家文書「河南木綿商組合書類」より作成。