地価修正運動の展開

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明治二〇年(一八八七)七月、河内国の地主有志は、「告河内国地主諸君」(『東大阪市史』史料編近代Ⅰ)という檄文を配布し、地価修正運動を展開したが、この年の地価修正では、河内・和泉・摂津三国の地価が上位三位を占めることに変わりはなかった。二一年、代表が、来阪中の松方正義(まつかたまさよし)大蔵大臣に陳情、嘆願書を提出するなど(『大阪朝日新聞』明治21・7・27)、運動は盛り上がり、二二年一月には東尾平太郎・溝端佐太郎が上京し請願書を提出することになった(同10・4、12・6)。全国的な地価修正運動の盛上りの中で、二二年八月、政府は地価特別修正を公布し、大阪府も「田畑地価修正割賦手続」を布達した(『羽曳野市史』六)。しかし、この地価修正も、原則として地位等級を変更せず、各等級の反当地価を引き下げるというもので、地価算定の不公平是正を求める府下の地主の不満は解消しなかった。国会が開設されると、地価修正運動は国会請願運動として展開することになり、二四年一月、摂津・河内・和泉三国の請願委員が署名を集めて上京委員を選出し、二月、貴衆両院に請願書を提出した。第一議会で民党は、政費削減・民力休養を唱え、地租率五分引下げと支出削減を要求したが、地租軽減は貴族院で否決された。第二議会に備えて請願運動の準備が進められたが、一二月二五日、議会が解散された。二五年五月に開会した第三議会でも衆議院が地価修正を可決したものの、貴族院で否決された。大阪府では六月、地価修正期成請願組合規約を設けて請願運動を展開することになり、八月一日に中之島洗心館(現大阪市北区)で一府一五県の代表による地価修正同盟府県連合大会が開かれた。府下各郡で地価修正陳情書の署名活動が行われ、九月二〇日、陳情委員が大挙上京した(『大阪朝日新聞』明治25・9・21)。政府は、第四議会・第五議会に地価修正案を提案したが、貴族院で否決あるいは審議未了になった。

 二七年一月、地価修正派は日本農民協会を結成し、第三回選挙は地価修正を優先する候補者を選挙することとし、推薦候補には地価修正団体への加盟を求めた(同27・1・5)。四月、大阪府支部が結成され、府下選出議員に働きかけた。発起人は、全田俊太郎・中野治兵衛ら民党系の者が多かったが、非民党の候補者も地価修正を無視できなかった。出水弥太郎は、二七年二月二四日、三宅村(現松原市)で行われた演説会で条約励行と共に地価修正を主張し、『大阪朝日新聞』は、「出水氏の地価修正は個人主義の専有物にあらずとの説大いに感動を与へ」と報じている(同2・27)。五月、請願書を両院議長に提出するが、議会が解散され、その直後に日清戦争が始まったため運動は中絶した。日清戦争後、政府は殖産興業・軍備拡張などに力を注ぐため、三一年五月、第一二議会に地租・所得税・酒造税の増税案を提出した。大阪府では、府会議員や有志者などが増租反対協議会を開き、運動委員を上京させることになった。しかし、その要求は、地価修正が実現するなら、多少の増税は止むを得ないというものであった(『大阪朝日新聞』明治31・5・25)。政府が地価修正をともなわない地租増徴案を衆議院に提出すると、自由・進歩両党が提携して否決したので、政府は議会を解散した。七月一〇日、二府二五県の代表が大阪で地価修正同盟大会を開き、地価修正の実行に努める代議士を選挙することを申し合わせた。三一年一二月、第一三議会に地租増徴案と地価修正案が提出され、多数派の憲政党が、地価修正と増徴期間を五年間に限ることを条件に地租増徴を認めて修正可決した。