第一回総選挙は、明治二三年(一八九〇)七月一日に実施された。選挙区は原則として一人一区の小選挙区制で、大阪府下は九選挙区に分けられた。その選挙区・選挙資格者数・議員定数は表48のとおりである。第七選挙区の主な候補者は、東尾平太郎・溝端佐太郎・全田俊太郎・江馬朝道の四人であった。
選挙区 | 区郡名 | 選挙人数 | 選挙人小計 | 議員定数 |
---|---|---|---|---|
人 | 人 | 人 | ||
第1区 | 西区 | 409 | 409 | 1 |
第2区 | 東区 | 510 | 669 | 1 |
北区 | 159 | |||
第3区 | 南区 | 283 | 283 | 1 |
第4区 | 西成区 | 974 | 2,041 | 2 |
東成区 | 635 | |||
住吉区 | 432 | |||
第5区 | 島上郡 | 729 | 2,929 | 1 |
島下郡 | 1,185 | |||
豊島郡 | 772 | |||
能勢郡 | 243 | |||
第6区 | 茨田郡 | 785 | 2,842 | 1 |
交野郡 | 790 | |||
讃良郡 | 339 | |||
河内郡 | 312 | |||
若江郡 | 493 | |||
高安郡 | 123 | |||
第7区 | 石川郡 | 485 | 2,937 | 1 |
八上郡 | 219 | |||
古市郡 | 167 | |||
安宿部郡 | 39 | |||
錦部郡 | 409 | |||
丹南郡 | 562 | |||
志紀郡 | 266 | |||
丹北郡 | 453 | |||
大県郡 | 59 | |||
渋川郡 | 278 | |||
第8区 | 堺市 | 160 | 1,690 | 1 |
大鳥郡 | 839 | |||
泉郡 | 691 | |||
第9区 | 南郡 | 830 | 1,873 | 1 |
日根郡 | 1,043 | |||
合計 | 15,673 | 10 |
注1)選挙人小計については、計算し直したものがある。
2)『大阪朝日新聞』(明治23年5月18日)より作成。
東尾平太郎は志紀郡沢田村大字林(現藤井寺市)の出身で、一四年三月の堺県合併にともなう府会選挙に当選、二〇年一二月選挙に落選するが二二年二月選挙で返り咲き、議長に選ばれた。一四年、立憲政党の結成に加わり活躍した(北崎豊二「明治前期における大阪の民衆運動」同氏『近代大阪と部落問題』所収)。立憲政党は一六年三月に解党するが、その系譜は大阪談話会・北浜倶楽部として引き継がれ、大同団結運動に加わっていく(原田敬一「『三大事件建白運動』と大阪民党」同氏『日本近代都市史研究』所収)。政社・非政社をめぐって大同団結派が分裂し、政社派が大同倶楽部を結成すると、北浜倶楽部の独立党と呼ばれる一派は、大同倶楽部と連合して月曜会を結成した。東尾は、月曜会の有力メンバーであった(北崎豊二「大同団結運動と大阪の倶楽部―月曜会と大阪苦楽府を中心に―」北崎前掲書所収)。
溝端佐太郎は、丹南郡狭山村大字半田(現大阪狭山市)の出身で、一四年三月の府会選挙に当選、以後連続当選し、一八年からは郡部常置委員であった。立憲政党名簿には見当たらないが、二二年六月調査の「月曜会会友姓名表」には名を連ねている(同)。全田俊太郎は、丹北(たんぽく)郡瓜破(うりわり)村大字東瓜破(現大阪市平野区)の出身で、二〇年一二月、全田覚太郎の後を受けて府会議員になり、二一年五月の選挙に落選するが、同年一二月、補欠選挙で再選されて三〇年五月まで府会議員であった。第一回総選挙では『大阪朝日新聞』が主義不詳としているが、「月曜会々友姓名表」に名前が挙がっており、六月三〇日の『関西日報』も月曜会員として扱っている。江馬は、元狭山藩少参事で、一三年四月、吉野・宇智郡(五条郡役所)の郡長に任命されたが(河内長野市松下家文書「郡村区名換並役名学校所留」)、第一回総選挙では非職郡長で中立派とされている(『大阪朝日新聞』明治23・7・4)。江馬家は、明治二年廃藩時には家老を勤めた家柄で、旧狭山藩士や旧狭山藩領に影響力を持っていた。
最有力候補とみなされていた東尾の選挙運動の基盤になったのは、地価修正運動である。ところが、溝端や全田も府会議員で月曜会に所属し、地価修正運動に活躍していた。特に溝端佐太郎は、南河内を地盤とし、有力候補と目されていた。二〇年一二月二日、『大阪日報』が発表した「仮設府会議員投票高点人名」は、府会議員選挙人の参考に供するため、指名投票を募ったものであるが、溝端が三四〇票で一位、東尾は二九一票で一四位で、溝端が勝っていた(『大阪日報』明治20・12・2)。各選挙区で候補者が乱立し、共倒れの恐れがあった月曜会では、六月一五日、急きょ、委員・総代五〇人余を招集して総集会を開き、各選挙区候補者の予選を行った(『関西日報』明治26・6・17)。第七選挙区では東尾が候補者に選ばれたが、地元では溝端も依然として有力な候補者であった。そこで、六月一九日、両派は富田林村の料亭に会し、調停を図らなければならなかった(同23・6・22)。全田との間にも、何らかの調停がなされたようで、二三年六月三〇日の『関西日報』は、「或る有志者の調和により遂に溝端・全田の両氏は、自己の地位を放棄し公然東尾氏に譲ることゝなりたり」と報じている。
選挙の結果は、『大阪朝日新聞』によれば東尾が二一五四票を得て、江馬の三三二票、全田の二三五票、溝端の二七票に大差を付けて当選した(明治23・7・4)。選挙後の二三年八月二五日、旧自由党系諸派が合同して立憲自由党を結成するが、大同倶楽部もこれに加わり、東尾も立憲自由党に所属することになった。