帝国議会が開かれると、多数を占める民党と政府が対立し、第一議会は、両者の妥協によって何とか終了したものの、第二議会では、政府の富国強兵策と民党の民力休養論が激しく対立し、明治二四年(一八九一)一二月二五日、衆議院は解散された。第二回総選挙は、二五年二月一五日に実施されることになり、第七区では立憲自由党の現職東尾平太郎と勝山孝三・江馬朝道・出水弥太郎が、烈しい選挙戦を展開した(『大阪朝日新聞』明治25・2・5付録)。
勝山は、南大伴村の出身で、北海道から急きょ帰郷して候補として名乗り出た人物であるが、詳しくは本章第四節で叙述する。出水は、丹南郡平尾村(現美原町)の豪農である。一四年二月、古市郡役所(石川・八上・古市・安宿部・錦部・丹南・志紀郡)の布達に、一七等官相当郡書記として名前が出ており、一三年四月の郡制施行以来、古市(ふるいち)郡役所書記に任命されていたものと思われる。選挙にあたって、内務大臣品川弥二郎・内務次官白根專一は、民党に対抗する吏党候補の擁立と当選に力を入れており、大阪第七選挙区では出水が擁立されることになった。選挙後の二五年一〇月から一一月にかけて、品川は河内を遊説しているが、出水が随行し、一〇月三〇日には出水の家に宿泊している(富田林杉本家文書「日新誌」)。出水が河陽鉄道の創設に活躍できたのも、品川の意を体して立候補し、中央官界と通じるようになったからであるといわれる(『大鉄全史』)。このように出水は、第二回総選挙落選後も品川弥二郎との関係を保ち、その庇護の下に、地元で活躍し、第三回選挙以後も候補者として名乗りを上げることになる。
第二回総選挙の第七選挙区は、前議員東尾安泰の予想に反して烈しい競争になった。当初、東尾のライバルと目されたのは勝山であった(『大阪朝日新聞』明治25・1・10、23)。勝山は、東京の専門学校に学んだ知識人として、学識と弁舌をもって運動を展開し、好評を得、一時は東尾に迫る勢いを示した。東尾は、第一回総選挙と同様に、専ら地価修正を訴え、手堅い支持を集めた。一月二三日、富田林村桐徳亭で東尾の演説を聴いた杉本藤平(敬信)は、その日の日誌(「日新誌」)に「演説中尤之事も有(中略)、山口県田方(たかた)廿弐円と申、畑方(はたかた)三円弐三拾銭と云、米価も十三年より廿一年者平五円三拾銭内外と云、府下同平均五円と云、収穫米平均同年中大坂府壱石三斗六升、同山口県壱石三斗と云、此不公平見るヘシ、是非地価修正行ハスンハアラスト演説ス、実ニ人ヲ感動ス」と記している。杉本は、この選挙では出水の応援を頼まれて、次第に出水の選挙運動に力を注ぐようになるが、第一回総選挙では東尾に投票しており、出水を応援するようになっても、東尾の地価修正論には心を動かされたのである。二月一日、志紀郡道明寺村(現藤井寺市)梅栄座で開かれた東尾派の地価修正談話会は、聴衆が八、九百人に達し、満場立錐(りっすい)の余地もないほどになり、遅れてきた二〇〇人余は入場を謝絶しなければならなかったという(『大阪自由新聞』明治25・2・3)(松原市嶋田家文書)。地価修正は、大阪府下の地主にとっては最大関心事であり、民党以外の候補者にとっても無視できない問題であった。選挙戦は過熱し、供応や買収、非難中傷が横行するようになる(『大阪朝日新聞』明治25・1・26、同2・1)。