第二回総選挙の結果、民党の勢力は後退し、大阪では東尾を除く全員が落選した。他の当選者は、政府の保護を受けて当選した議員を中心とする地域団体である近畿団体に加入し、明治二五年(一八九二)四月、非政社団体である中央交渉部の結成に参加し、第三議会では与党の立場に立った。東尾は、自由党の院内交渉団体である弥生倶楽部に所属していたが、二六年一二月、星亨の指導に反対する者が自由党を脱党して同志倶楽部を結成すると、それに同調した。同志倶楽部は内地雑居反対・現行条約励行を主張して対外硬六派(たいがいこうろっぱ)に加わった。衆議院が条約励行を決議すると第五議会が解散され、二七年三月一日に第三回総選挙が実施された。東尾は対外硬を掲げて三選を果たし、立憲革新党に所属した。一一七六票を獲得しながら、三五三票差で惜敗した出水弥太郎は、三月四日、支持者に挨拶状を送って再挙を誓った(松原市西田家文書)。出水が所属する国民協会は、中央交渉部所属議員を中心に結成された政党で、会頭が西郷従道、副会頭が品川弥二郎で、対外硬派の一角をなしていた。出水は、地価修正・監獄費国庫負担といった民力休養にも熱心であったが、政府と民党が接近し、吏党である国民協会の地位は低下していた。そのような政治情勢に出水は、党利党略であるとして反発し、捲土重来(けんどちょうらい)の意思を表明したのである。
二七年五月、自由党を除く諸派が内閣不信任上奏案を可決すると、伊藤内閣は、六月二日議会を解散した。その直後に日清戦争が起こり、第四回総選挙は戦時下の九月一日に実施されることになった。対外硬派はこの解散を攻撃したが、戦争が始まるや政府批判は影を潜め、候補者を統一して現職議員を優先させることにした。このようなムードの中で、出馬の意欲に燃える出水も、立憲革新党の現職議員である東尾に譲らなければならなくなった。出水派は東尾派と交渉して、次回総選挙で東尾が候補を辞退し、出水に譲ることを条件に出水の出馬を取り止めることにし、七月二〇日、支持者に書簡を送って、その旨を伝えた(松原市西田家文書)。こうして東尾は四選を果たすことになった。第一回総選挙以来、連続して四選を果たしたのは、第九区の佐々木政乂(ささきせいがい)と二人だけである。
日清戦争後、対外硬派は、再び政府と自由党を批判するようになった。その主力は、二九年三月に進歩党を結成したが、国民協会はこれに加わらなかった。三〇年一二月、地租増徴案に反対する自由党と進歩党が内閣不信任決議案を提出すると、松方は、議会を解散した。三一年三月一五日の第五回総選挙では、自由党と進歩党が議席の三分の二近くを占めることになった。進歩党は東尾を第七区の候補に擁立しようとしたが、東尾は前回選挙時の約束に従って候補を辞退し、支援に謝意を表した辞退書を配布した(『大阪朝日新聞』明治31・3・3)。第七区は、出水の独り舞台となって二五四四票を獲得し、東尾の得票は七二票にとどまった。三一年六月一〇日、地租増徴案が否決されると政府は議会を解散し、自由党と進歩党は合同して憲政党を組織した。第六回総選挙は、八月一〇日に行われることになり、前回候補を辞退した東尾はいち早く名乗りを上げ、出水もまた意欲を燃やし、選挙戦は烈しいものになった。当選後三か月で解散、総選挙となった出水は、七月一七日、「極短期ノ解散ト相成候ニ付、今一回丈(だけ)継続候様致度」(松原市西田家文書)と支持者に訴えている。選挙の結果は、出水が一四一一票を獲得し、わずか五票の差で東尾を制し再選を果たした。憲政党が三〇〇議席中二六〇議席を得、国民協会は二〇議席まで後退した選挙であっただけに、東尾派は諦めきれず、選挙違反などを理由に当選無効の訴訟を起こしたが認められなかった。