選挙法改正後の総選挙

207 ~ 209

明治三三年(一九〇〇)三月二九日、衆議院議員選挙法が改正され、選挙権の納税資格が直接国税一〇円に引き下げられるとともに、大選挙区制が採用された。改正選挙法による最初の総選挙は、三五年八月一〇日の第七回総選挙であった。大阪府は、大阪市と堺市を除く郡部が一選挙区となり、定員は六人であった。選挙権の拡大と大選挙区制は選挙戦に変動をもたらし、票数の多い河内は混戦となった。北海道協会員として北海道の拓殖事業に従事していた勝山孝三が急きょ帰省し、一〇年ぶりに立候補した。この年三月、勝山は、北海道釧路で『新蝦夷ッ子』という雑誌を創刊し(写真56)、同年四月発行の第二号(新堂平井家文書)に「議員選挙者に告く」と題する論説を掲げている。巻頭には勝山の写真が掲げられており、選挙運動を意図したものといえる。選挙法の改正による郡部の大選挙区制実施を好機とみて、勝山は立候補し、現職の代議士を批判して国事に奔走したことのある国士を選べと主張した。その結果、出身地の南河内郡で確乎たる地位を確保できなかったが、第四回総選挙に第六区で当選したことのある元代議士で政友会を脱会した菅野道親や東成郡の多賀谷陳などの支持を得て、中河内郡・東成郡で勢力を伸ばそうとした(『大阪朝日新聞』明治35・6・17、7・5)。

 東尾平太郎は、三一年一一月、憲政党が分裂すると、旧進歩党系の憲政本党に所属した。同年一二月、第一三議会に地租増徴案と地価修正案が提出されると、旧自由党系の憲政党は地価修正を条件に地租増徴を認め、府下選出の代議士も賛成の立場をとり、大阪府会は、地租増徴賛成の建議を可決した。地租増徴に反対する憲政本党大阪支部は、「増租反対ノ趣旨」を『うき世新聞』の号外として配布したが(『忠岡町史』一)、地租増徴案と地価修正案は、衆議院で修正可決され、一二月二七日には貴族院を通過した。地価修正運動の中心となって活躍してきた東尾は、あくまで地租増徴に反対し、憲政本党に身を投じたのである。憲政党の勢力は強く、新聞の予想でも東尾はあまり取り上げられなかった。しかし選挙区の拡大は、東尾に有利であった。府下郡部全域の地租増徴反対派の地主の支持を集めることができたからである。増税に反対する憲政本党の中には、選挙を前に地租復旧期成会ともいうべき団体を組織しようとする動きがあった(『大阪朝日新聞』明治35・5・25)。南河内郡の地租増徴反対派は、東尾を支持する「代議士候補推薦書」(廿山尾崎家文書)を配布している。

写真50 明治35年「代議士候補推薦書」(尾崎家文書)

 出水弥太郎は、国民協会が都市部の新興勢力を集めるための綱領を掲げて帝国党を組織すると、これに加わらず、無所属で出馬し、利益誘導の選挙を批判するとともに、中河内郡にこだわらず河内全体として代表を選出することを訴えている(松原市西田家文書「政見の一斑」)。選挙結果は、東尾が一七六一票を獲得して復活当選を果たし、勝山・出水は、それぞれ一〇五三票、八九七票で落選した。三人は、ともに南河内・中河内郡の旧七区を地盤としたが、そこでは、東尾が一一六一票、勝山が七八九票、出水が七五八票と大差はなかった。しかし、東尾は泉北・泉南・西成の諸郡でも得票し、勝山が東成郡で得票したのがこの差に連なり、出水は、事実上の最下位といってもよい惨敗を喫した(『大阪朝日新聞』明治35・8・13)。

 この選挙は、当選者六人のうち三人が立憲政友会、次点二人も立憲政友会で、郡部における政友会の地位を確立したといえる。また、現職議員で再選されたのは秋岡義一だけで、深尾竜三(旧六区)と出水弥太郎(旧七区)が落選した。東尾平太郎(旧七区)と佐々木政乂(旧九区)は、第五回総選挙に落選して以来の復帰であり、植場平(うえばたいら)・本出保太郎・中林友信の三人は、まったくの新人であった。このような交代の激しさも、この選挙の特徴であった(『大阪朝日新聞』明治35・8・13)。三六年三月一日に実施された第八回総選挙になると、三島郡は植場平、豊能郡は森秀次、泉北郡は中林友信、泉南郡は佐々木政乂の後を受けた川井為巳、南河内郡と中河内郡の旧七区は東尾平太郎、東成郡・北河内郡と中河内郡の旧六区は秋岡義一と地盤が確立した。また、当選者のうち四人が立憲政友会で、東尾は憲政本党の孤塁を守った(同36・3・4)。