日本が清国に宣戦を布告するのは明治二七年(一八九四)八月一日のことであるが、それに先だって日本軍は、七月二三日、京城の朝鮮王宮を占領して朝鮮軍を武装解除し、二九日に成歓、三〇日には牙山を占領した。その間、二五日には、日本艦隊が豊島沖で清国軍艦を攻撃している。朝鮮の情勢が伝えられると株価や物価が下落し、「諸株式大下落、当村ニも株式相庭(場)スル人多(カ)有、凡(およそ)皆〆テ此近傍二而壱万円余も損歟と申事」(富田林杉本家文書「日新誌」)「綛糸(かすりいと)去年八十四円五拾銭七拾銭と下落ス、京大坂余程商業ニ差響キ不景気ノ由ニ見ヘル、京祇園会前とハ余程淋敷、大坂天神祭も例年と余程不景気工合見ゆル」(同)ということになったが、その反面、米価は騰貴し、「弥(いよいよ)日清朝鮮ニ戦争開ク、為ニ人心穏ならす」(同)という状況であった。稲・綿の豊作が予想され、次々と戦勝のニュースが伝えられたが、人心は落ち着かず、盆踊りも警察から許可されなかった。廿山(つづやま)村では、八月一一日、盆踊り中止の議案が村会に提出されたが、警察から、これは警察権に属することで、村会で決めることではないという通知がなされている(廿山尾崎家文書)。八月一六日「軍事公債条例」が公布されると、株価は一段と下落し、広島に大本営が設営されることになると、米相場は荒れ模様となり「何と無く人々不穏恐多時節」(「日新誌」)となった。
九月一七日、平壌戦勝利のニュースが、府庁から郡役所に電報で通報され、ただちに管下の村役場に伝達された。村では各戸に国旗を掲げ、一九日は休業日として富田林御坊で祝勝会が開かれた。会費は一八銭であった。二二日には黄海海戦勝利のニュースも伝わり、戦勝ムードは一気に高まり、公債・株価は騰貴し、米価は落ち着いた。一一月二一日、旅順口が陥落すると、全国各地で戦勝祝賀会が開かれ、富田林郡役所管下の七郡でも、一二月四日、大規模な祝賀会が開かれた。「毎戸陸海軍大勝利抔(など)フラフ建、旭籏木綿八反ノ大ヲ辻ニ幟竿(のぼりざお)ニ揚ケ、提灯出し中々賑敷」、石川西岸の川原に宴席・模擬店が設けられ、仲居女が酒・赤飯・餅などを饗応(きょうおう)し、「角力も有花火昼夜打揚ケ中々大賑」であった。夜になると「村中ヱラヒヤツシヤノ言触踊り歩行、組ニ有大家ノ庭ヘ踊り込、専ら市中ニならひ大フザケ」という騒ぎになった。この騒ぎは翌日も続いたが、杉本は、「祝賀会ハ全国賑敷ケレ共、軍人衆征清御出軍嘸々(さぞさぞ)御困難中々の御働と想像スレハ、中々踊る事テモナシ、実ニ思ヘハ気の毒殊ニ徴兵ニ出軍之方々、其父母妻子歎キ思ヘハ中々落涙カハクヒマナシ、中々戦死又ハ病死之事も新聞ニ承り中々気の毒」と、いささか批判的であったが、「小作人も悦ンテ皆済ス、依年貢取ニ世話いらす、大ニ上都合なり」(以上「日新誌」)と上機嫌であった。
二七年七月には恤兵(じゅっぺい)寄付金の募金も始まった。二三日、石川郡の村長が大ヶ塚に集まり、一役場約二〇円程度の寄付を募ることになった。富田林村では五〇円を寄付することになり、八月二日、役場に集まって相談をし、分限に応じた金額を記帳している。杉山は五円、杉本は三円と記帳したが、後日、説得されてそれぞれ倍額に訂正している。「軍事公債条例」が公布されると、八月二六日、郡役所は富田林村の名望家を呼び出して公債の募集を通達した。管下七郡で五、六万円、富田林村で二万円の募集計画であった(同)。九月一二日、村役場から達しがあり、杉本は一〇〇〇円の申込みをしているが、一二月一三日、村役場に呼び出され、五〇〇円を追加している。大阪府下の応募金額は、一四三九万二〇〇〇円に達したが、実際に納金されたのは、六五二万三〇〇〇円であった(彼方土井家文書)。杉本も、「軍事公債ハ弐百円已上価格之分三分一と相成」として一〇〇円が払い戻されている(「日新誌」)。
大阪の第四師団は、一一月二六日に動員令が下ると(中野公策編『大阪と八連隊』)、即日、予備・後備兵の非常召集に着手し、富田林郡役所管内七郡でも五〇人に非常召集令が発せられた。入営には、大勢の人が旭旗を立てて賑々しく見送った(「日新誌」)。それに先だって九月二八日、富田林御坊は、京都本山から法主を招き、現役・予備役・後備役の徴兵百四、五十人を集めて帰敬式を行っている。法主は、「軍人も死ヲ不惜様、死スレハ直ニ仏智不審儀(思議)ヲ以極楽ニ往生ノ主意」を説き、髪剃(こうぞり)を行い、宗派を問わず一人一人に釈名と南無阿弥陀仏名号を採呼した(同)。
廿山村は、二七年九月二九日、六章一五条からなる「軍人待遇及召集家族扶助方法」を村会の議決を経て制定した。これは、兵事委員六人を大字・部落に配置し、協議費・寄付金をもって兵役従事者を扶助しようとするもので、第三章が臨時兵役に関する規定であった(近代Ⅲの三)。第三章の中心となる第六条・第七条は、二八年二月二日に改正されているが、それによれば、臨時召集応召者には旅費補助として二円を支給し、七条に規定する家族補助の必要のない者は三円に増額することになっていた。また、生活困難な家族には、次のように金銭を支給することになっていた。
(1)六〇歳以上および疾病者で自活できない男子は、月一円三五銭
(2)六〇歳以上および疾病者で自活できない女子、一五歳以下一〇歳以上男子は、月八一銭
(3)一〇歳以下の男女幼年者は、月五四銭
(4)応召者の妻女は、月八一銭
二八年二月二日、廿山村会に提出された議案・報告によれば、この規定による扶助は、応召者の旅費補助は二円が五人一〇円、三円が一〇人三〇円で合計四〇円、家族扶助は、妻女が二人一円六二銭、六〇歳以上の養父が一人一円三五銭、六〇歳以上の養母が一人八一銭、一〇歳以下の幼年者が四人二円一六銭で合計五円九四銭、総額四五円九四銭であった(同)。