日露戦争と地域社会

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日露戦争は、日清戦争をはるかに上回る大規模な戦争で、一一〇万人の兵力と一七億円の戦費が投入された。非常特別税による大増税と多額の内債・外債の募集が行われ、内債は、五回の国庫債券と臨時事件公債を合わせると八億円に達した。第一回の募集額は一億円で、政府は、約三億円の見積額を府県に割り当てた。大阪府の負担額である三七二一万七〇〇〇円を市郡に分担させるために、知事は、明治三七年(一九〇四)二月一五日、郡市長を召集し、募集は一度にとどまらない可能性があり、多額の負担に堪えるためには、いっそうの勤倹節約に心掛け、家計の二割以上を節約すること、少数の応募者が多額の応募申込みをするよりも、少額の応募者を多数募るように努力することを訓示している(彼方土井家文書)。市郡の割当額は、大阪市が三〇〇〇万円余、堺市が一〇〇万円、郡部が六〇〇万円で、郡部は府会議員選挙人一人に一八四円八七銭七厘の割合で各郡に配分し、南河内郡には九八万一八八一円が割り当てられた。彼方(おちかた)村は、割当額二万〇六五〇円の半分一万〇三二五円を三六年度所得税額一四九円四六銭で割り、所得税一円につき六九円八銭三厘四毛を割り当て、残りは村会議員選挙有権者一二五人に一人当り八二円六〇銭を割り当てた(彼方土井家文書)。大字別の配当額は、表49のとおりである。応募は順調だったようで、応募額は南河内郡で九九万五八〇〇円、大阪府全体では六九八万一五〇五円に達した(『大阪朝日新聞』明治37・3・16)。六月一日、富田林町は第二回国債割当ての相談会を開いており、第一回募集で四二〇〇円を応募した杉本家には二二五〇円の割当てがあった(富田林杉本家文書「日新誌」)。

表49 彼方村の日露戦争第1回国債応募割当額
所得税割 村会議員選挙人割
所得税額 割当額 人数 割当額
彼方 120.480 8,323.168 41 3,386.600
板持 4.660 321.929 36 2,973.600
伏見堂 10.600 732.286 24 1,982.400
横山 9 743.400
13.720 947.824 15 1,239.000
合計 149.460 10,325.207 125 10,325.000

注)彼方土井家文書「議案・行政書類綴」より作成。

 富田林町では、杉山団郎・奥谷伊平次らの資産家の協力を得て奉公義会(ほうこうぎかい)を組織し、古紙・古着・古縄・古金銀などを町内から集めて換金し、恤兵費献金に充てている(『大阪朝日新聞』明治37・3・24)(白黒口絵参照)。富田林町の橋本市太郎は、後備兵として応召し、鴨緑江(おうりょっこう)軍後備第一師団の糧食縦列(りょうしょくじゅうれつ)として奉天会戦に参加した(写真51)。出征にあたって奥谷虎次郎ら三〇余人が壮行会を開き、勝山孝三の法憲会が作成した絵はがき二〇〇枚を餞別として贈った。橋本は、講和条約締結後の一〇月、帰国を前にこの絵はがきを用いて数葉の便りを留守宅に送っている(富田林橋本(彌)家文書)(カラー口絵参照)。

写真53 富田林奉公義会集合写真(橋本家所蔵)

 日露戦争は、多大の兵力を動員して戦われ、予備役・後備役も合わせて多数が召集された。『日露戦役南河内郡出征軍人伝記』(以下『伝記』と略)は、明治四二年二月、南河内郡教育会が郡の補助を受け、小学校教員の協力を得て編纂したものである。橋本市太郎や後述する喜田藤吉郎のように記載洩れがあり、内容も精粗があるが、日露戦争出征軍人の全貌がほぼ明らかになる貴重な史料である。それによると、本市域の出征軍人は、表50のとおりで、総数三四一人に及び、日清戦争や台湾守備の従軍経験者三七人も含まれていた。また、新堂村大字新堂の内田吉太郎・三治郎や川西村大字甲田の水郡(にごり)富三郎・喜市のように、兄弟揃って出征している例もあり、水郡兄弟は、相次いで戦死している。第四師団は第二軍に加わり、三七年五月七日、金州に上陸し、二六日の南山攻撃に一番乗りを果たすという活躍ぶりをみせた。しかし、南山の戦いは、一日で日清戦争に費やしただけの砲弾を撃ち尽くし、四三八七人の死傷者を出した激戦であった。さらに第二軍は北上して、八月、第一軍・第四軍とともに遼陽(りょうよう)会戦・沙河会戦に参加した。遼陽会戦は、勝利を収めることができたものの戦闘は七日間に及び、死傷者は二万五〇〇〇人を超えた。旅順攻略戦に加わった第三軍の損害はさらに大きく、一五五日にわたる攻防戦によって死傷者は、五万九〇〇〇人を超えた。特に八月二一日から二四日にかけての第一回総攻撃では、第九師団(金沢)と後備歩兵第四師団の一部が旅順東北の盤竜山を一時占領したが、総兵力五万七〇〇〇人中一万五八〇〇人の死傷者を出し、総攻撃は失敗に終わった。一〇月二六日から三一日にかけての第二回総攻撃も、総兵力四万四〇〇〇人中三八三〇人の死傷者を出して失敗に終わり、一一月二六日からの第三回総攻撃では、決死隊を編成して奇襲攻撃をかけたが全滅に近い損害を被り、失敗に終わった。その後作戦を変更し、一二月五日、二〇三高地を占領し、ようやく旅順港の砲撃が可能になった(『明治三十七八年日露戦史』)。

表50 日露戦争出征者
町村 氏名 兵種階級 勲等 勲章 功級 備考
富田林町大字富田林 1 貴治専太郎 歩兵上等兵 7 *+
2 平尾富三郎 歩兵上等兵 7 7
3 祢酒音五郎 歩兵上等兵 7 7
4 橋本次松 歩兵一等卒 7 *+
5 瀧谷房吉 歩兵一等卒 8 7
6 田中亀治 歩兵一等卒 8 7
7 奥谷伊逸郎 歩兵一等卒 8
8 石垣勝吉 歩兵一等卒 8
9 浦田亀吉 歩兵一等卒 8
10 仲村信昌 歩兵一等卒 8
11 木口善三郎 歩兵一等卒 8
12 杉山市太郎 歩兵二等卒 8
13 大阪久吉 歩兵二等卒
14 太田寅吉 歩兵二等卒
15 三好金三郎 歩兵二等卒
16 河井圭治 騎兵一等卒 8
17 伊藤末治 騎兵二等卒
18 川谷徳松 砲兵輸卒 8
19 山本元治郎 砲兵輸卒 8
20 太子安吉 砲兵輸卒 8
21 橋本甚治郎 輜重兵軍曹 7
22 中谷幾之助 輜重兵上等兵 8
23 朝山栄吉 輜重輸卒 8
24 大塚常治郎 輜重輸卒 8
25 樽谷芳太郎 輜重輸卒 8
26 橋本喜治郎 輜重輸卒
27 橋本忠兵衛 一等計手 7 △*
同町大字毛人谷 28 田中仙太郎 歩兵軍曹 7
29 石原勇造 歩兵伍長 8 △*+
30 井上繁之助 歩兵上等兵 8
31 玉井惣治郎 歩兵上等兵 8
32 用木富三郎 輜重兵軍曹
33 田中覚治郎 輜重輸卒 8
34 仲谷荘吉 輜重輸卒 8
35 八尾栄吉 輜重輸卒 8
新堂村大字新堂 36 油井安吉 歩兵一等卒 8
37 平井龍三 歩兵曹長 7 △*+
38 斎藤一良 一等看護長 7
39 折本留治郎 歩兵曹長 7 7
40 泉原富三郎 歩兵曹長 7
41 杉山新太郎 歩兵伍長 8
42 大谷由三郎 歩兵一等卒 8 7
43 谷村富造 歩兵一等卒 8
44 内田三治郎 歩兵一等卒 8
45 中島好太郎 歩兵一等卒 8
46 竹村兵五郎 歩兵一等卒 8
47 内田吉太郎 歩兵一等卒 8
48 藤井勝造 歩兵一等卒 8
49 仙徳兵造 歩兵一等卒 8
50 仲谷徳太郎 歩兵一等卒 8
51 上角儀三郎 歩兵二等卒 8
52 黒田安太郎 歩兵二等卒 8
53 根木庄治郎 歩兵二等卒
54 井辻熊吉 歩兵二等卒
55 土井保一 騎兵特務曹長 7
56 杉多三次郎 砲兵伍長 7
57 平岡永三郎 砲兵上等兵 8 7
58 日野四郎平 砲兵一等卒 8
59 芝豊吉 砲兵一等卒 8
60 田中仁三郎 砲兵二等卒
61 田口熊造 砲兵輸卒 8
62 福本豊治郎 砲兵輸卒 8
63 竹田喜佐治郎 砲兵輸卒 8
64 根木富造 砲兵輸卒 8
65 福田安吉 工兵一等卒 8
66 福田永吉 工兵一等卒 8
67 木下彦四郎 輜重輸卒 8
68 高橋種吉 輜重輸卒 8
69 板井勘吉 輜重輸卒 8
70 久保柳造 輜重輸卒 8
71 川端新治郎 輜重輸卒 8
72 吉田栄蔵 輜重輸卒 8
73 山谷正造 輜重輸卒 8
74 祐仙末吉 輜重輸卒 8
75 中筋市次郎 輜重輸卒
76 芝又一 輜重輸卒
77 松谷友三郎 輜重輸卒
78 福嶋直太郎 輜重輸卒
79 乾辰造 輜重輸卒
80 武田永三郎 輜重輸卒
同村大字中野 81 村本廣吉 歩兵中尉 6
82 多田秀太郎 歩兵上等兵 8
83 松本儀三郎 歩兵一等卒 8
84 西条米吉 歩兵一等卒 8
85 浅井市多郎 歩兵一等卒 8
86 乾富太郎 歩兵一等卒 8
87 岸本富次郎 歩兵一等卒 8
88 松葉寅吉 歩兵一等卒 8
89 増井増治郎 歩兵一等卒 8
90 山岸保治 歩兵二等卒 8
91 井辻太治郎 輜重輸卒 8
92 北野久治 輜重輸卒 8
93 西条丑松 輜重輸卒 8
94 多田徳義 輜重輸卒 8
95 多田藤多郎 輜重輸卒
96 岸本岩太郎 輜重輸卒
97 西尾留太郎 輜重輸卒
喜志村大字喜志 98 鎌田弥三郎 歩兵少尉 6
99 清水謙造 歩兵伍長 8
100 尻谷小治郎 歩兵上等兵 8
101 仲谷若太郎 歩兵上等兵 8
102 山本友太郎 歩兵一等卒 7
103 土井市松 歩兵一等卒 8
104 本条安吉 歩兵一等卒 8
105 松山熊治郎 歩兵一等卒 8
106 東谷安太郎 歩兵一等卒 8
107 仲谷留吉 歩兵一等卒 8
108 南野支吉 歩兵一等卒 8
109 青谷甚三郎 歩兵一等卒 8
110 村本清三郎 歩兵一等卒 8
111 三浪鹿造 歩兵一等卒 8
112 植木佐太郎 歩兵一等卒 8
113 巽多三郎 歩兵一等卒
114 楠本亀太郎 歩兵一等卒
115 松山誠治郎 騎兵一等卒 8
116 松本捨五郎 騎兵一等卒
117 巻野庄太郎 砲兵上等兵 8
118 山岸庄太郎 砲兵上等兵 8
119 岩本梅吉 砲兵一等卒 8 7
120 松本喜三郎 砲兵一等卒 8 7
121 楠本梅太 砲兵一等卒 8
122 南野保太郎 砲兵一等卒 8
123 木下辰治郎 砲兵一等卒 8
124 内本芳太郎 砲兵一等卒 8
125 山本藤治郎 砲兵一等卒 8
126 巽宇三郎 砲兵一等卒 8
127 山本浅吉 砲兵一等卒 8
128 山本週造 砲兵一等卒 8
129 山本新三郎 砲兵一等卒 8
130 応治幸太郎 砲兵輸卒 8
131 松本鎌太郎 工兵一等卒 8
132 建石梅吉 輜重輸卒 8
133 森口米吉 輜重輸卒 8
134 辻好太郎 輜重輸卒 8
135 植木梅太郎 輜重輸卒 8
136 阪本徳次良 輜重輸卒 8
137 巽是性 輜重輸卒
138 古川重太郎 輜重輸卒
139 山本房吉 輜重輸卒
140 南野富太郎 輜重輸卒
141 登神安吉 輜重輸卒
142 西田弥一郎 輜重輸卒
143 岸徳治郎 輜重輸卒
144 北野富太郎 輜重輸卒
145 高田租 二等軍医 6
146 村本亀治郎 歩兵一等卒 8
大伴村大字北大伴 147 西村亀三治 歩兵少尉 6
148 芝野已三郎 歩兵曹長 7
149 阪本字三郎 歩兵一等卒 8
150 杉田嘉市 近衛歩兵一等卒 8
151 河辺大円 歩兵一等卒 8
152 西村信治 歩兵一等卒 8
153 石田文吉 歩兵二等卒
154 西田多三郎 砲兵一等卒 8
155 森田多造 輜重輸卒 8
156 原田善太郎 輜重輸卒 8
157 仲井喜三郎 輜重輸卒 8
158 三島太郎 二等看護長 7
同村大字南大伴 159 吉川英太郎 歩兵一等卒 8
160 砂野梅吉 歩兵一等卒 8
161 西光卯吉 歩兵一等卒 8
162 藤田吉松 歩兵二等卒
163 杉本国松 近衛歩兵二等卒
164 原田鉄治 砲兵二等卒
165 西光八治郎 工兵二等卒
166 籾倉寅吉 輜重輸卒 8
167 仲野森三郎 輜重輸卒 8
同村大字別井 168 筒井佐太郎 歩兵伍長 7
169 北野末吉 歩兵一等卒 7
170 斎藤宇太郎 歩兵一等卒 8 7
171 松田清次郎 近衛歩兵一等卒 8
172 北野卯太郎 歩兵一等卒 8
173 大西安太郎 歩兵一等卒 8
174 吉田仁蔵 歩兵一等卒 8
175 辻野甚太郎 歩兵一等卒
176 辻野安太郎 歩兵二等卒 7
177 石井与市 輜重輸卒 8
178 辻野新太郎 輜重輸卒
179 北野千太郎 輜重輸卒
180 高谷亀吉 一等計手 7
同村大字山中田 181 壺井信太郎 歩兵上等兵 8
182 阪本庄太郎 歩兵一等卒 8 7
183 三島卯太郎 歩兵一等卒 8
184 三島幸太郎 歩兵一等卒
185 北村網吉 歩兵一等卒
186 増田寛 騎兵上等兵
187 杉山信治 看護卒 8
同村大字板持 188 辻定吉 砲兵一等卒 8 7
189 柳本光治郎 砲兵一等卒
190 仲野定吉 輜重輸卒 8
191 南口卯太郎 輜重輸卒
192 柳本音松 輜重輸卒
東条村大字佐備 193 西野元次郎 歩兵曹長 7
194 中尾才次郎 歩兵軍曹 7 7
195 土井重太郎 歩兵一等卒 8 7
196 土井卯太郎 歩兵一等卒 8
197 東重太郎 歩兵一等卒 8
198 南尾安太郎 歩兵一等卒 8
199 山際佐太郎 歩兵一等卒 8
200 中野栄太郎 歩兵一等卒 8
201 中野市太郎 歩兵一等卒 8
202 南向藤太郎 歩兵一等卒
203 森本澤次良 歩兵一等卒
204 田中末吉 歩兵二等卒
205 田中鹿吉 歩兵補欠兵
206 田中岩吉 砲兵上等兵 8
207 西野房治郎 砲兵上等兵 8
208 北野保太郎 砲兵一等卒 8
209 中野包太郎 砲兵一等卒 8
210 簑城増太郎 砲兵一等卒 8
211 南嘉市郎 砲兵一等卒 8
212 奥田寅吉 砲兵一等卒 8
213 山際寅吉 砲兵一等卒
214 山際健造 砲兵一等卒
215 石塚庄太郎 砲兵輸卒
216 土井亀太郎 輜重輸卒 8
217 田中義治郎 輜重輸卒
218 中野亀太郎 輜重輸卒
219 桂増太郎 補充兵輜重輸卒
220 南卯吉 補充兵
同村大字甘南備 221 中野嘉市 歩兵上等兵 8
222 上田岩吉 歩兵上等兵 8
223 山口安太郎 歩兵一等卒 8
224 向山秀治郎 歩兵一等卒 8
225 松野伊三郎 歩兵一等卒 8
226 辻野本多四郎 歩兵一等卒 8
227 北野永松 歩兵一等卒
228 山中新太郎 砲兵一等卒 8
229 山中増五郎 砲兵二等卒
230 山口兵吉 第一補充兵輜重輸卒
同村大字龍泉 231 段福松 歩兵一等卒 8
232 辻安吉 歩兵一等卒 8
233 植条周治 歩兵一等卒 8
234 道籏音治郎 歩兵補充兵
235 東条岩太郎 砲兵一等卒 8
236 松村為五郎 輜重兵一等蹄鉄工長 7
237 松村団郎 輜重兵軍曹 7
238 喜多栄太郎 輜重兵伍長 7
239 谷口寅太郎 輜重輸卒
川西村大字甲田 240 水郡富三郎 歩兵少佐 4 5
241 浅川八治 歩兵軍曹 7 7
242 塚由平造 歩兵一等卒 8 7
243 浅川丑松 歩兵一等卒 8
244 寺本鶴松 歩兵一等卒 8
245 寺本芳松 歩兵一等卒 8
246 中谷世二郎 歩兵一等卒 8
247 森本富太郎 歩兵一等卒 8
248 森本栄治郎 騎兵上等兵 8 7
249 水郡喜市 砲兵伍長 8 7
250 錦辰三郎 砲兵上等兵 8 7
251 北庄三郎 砲兵一等卒 8
252 錦久治 輜重輸卒 8
253 井上幸三郎 輜重輸卒 8
254 河本卯三郎 輜重輸卒
255 錦竹二郎 輜重輸卒
同村大字廿山 256 小山徳太郎 歩兵上等兵 8
257 尾崎幸三郎 歩兵一等卒 8 7
258 尾崎近造 歩兵一等卒 8
259 松本米吉 歩兵二等卒 8
260 沖田幾太郎 歩兵一等卒 8
261 小堀林造 歩兵二等卒
262 竹川辰次郎 歩兵二等卒
263 野浦鹿造 砲兵一等卒 8
264 沖田猪三郎 砲兵一等卒 8
265 上尾与三郎 砲兵輸卒
266 小堀辰造 輜重輸卒 8
267 置田新太郎 輜重輸卒 8
268 増田幸治郎 輜重輸卒 8
269 中尾作治郎 輜重輸卒 8
270 塚本鹿造 輜重輸卒 8
271 尾崎熊治郎 輜重輸卒 8
272 中尾末明 輜重輸卒
273 尾崎新太郎 輜重輸卒
新家 274 内田啓二郎 歩兵軍曹 7 7
同村大字加太 275 森本米吉 歩兵一等卒 8
276 岡本己之助 歩兵一等卒 8
277 北井政吉 砲兵二等卒
錦郡村大字錦郡 278 三並平太郎 歩兵伍長 8 7
279 竹本吉松 歩兵上等兵 8
280 辻楠一 歩兵上等兵 8
281 原見宇市 歩兵一等卒 7
282 森井作造 歩兵一等卒 8
283 山本重太郎 歩兵一等卒
284 西野元次郎 歩兵一等卒 △+
285 中山孝司 歩兵一等卒 8
286 梅川新多郎 騎兵曹長 7
287 森本専吉 砲兵聨隊一等卒 8 6
288 前田伊之吉 砲兵一等卒 8
289 西田丑松 砲兵一等卒 8
290 藤本与三郎 工兵上等兵 8
291 森井作治 工兵上等兵
292 中谷八太郎 輜重輸卒 8
293 森井清太郎 輜重輸卒 8
294 塔本梅吉 輜重輸卒 8
295 中谷亀吉 輜重輸卒 8
彼方村大字板持 296 奥野藤治郎 歩兵一等卒 8 7
297 川角槌松 歩兵一等卒 8 7
298 中島栄治郎 歩兵一等卒 8 7
299 綿倉蔵 歩兵一等卒 8
300 中筋丑松 歩兵一等卒 8?
301 北条宇三郎 歩兵一等卒 8
302 岡田寅太郎 歩兵一等卒
303 斧田八治郎 歩兵二等卒
304 上野民治 歩兵二等卒
305 中島唯治郎 歩兵二等卒
306 平田又五郎 歩兵?
307 柳本菊松 砲兵一等卒 8 7
308 奥野鶴松 砲兵一等卒 8
309 塚田門治郎 砲兵一等卒 8
310 奥野頼造 砲兵一等卒 8
311 奥野弥三治 砲兵一等卒 8
312 土井盛太郎 砲兵一等卒 8
313 辻野隆治郎 砲兵一等卒
314 辻野好太郎 砲兵一等卒
315 上辻貞三郎 砲兵二等卒
316 北野治三郎 工兵二等卒
317 岡田道太郎 輜重兵二等卒
318 西野好太郎 砲兵輸卒 8
319 中島丈太郎 砲兵輸卒 8
320 中川栄吉 砲兵輸卒 8
321 斎藤勝治郎 輜重輸卒 8
322 塚田藤太郎 輜重兵輸卒
323 川口丑松 輜重兵輸卒
324 綿三治郎 輜重輸卒
325 田中文治郎 看護卒 8
同村大字彼方 326 土井喜三 輜重兵曹長 7
327 東山鹿追 歩兵伍長 8
328 寺田仙二郎 歩兵一等卒 8 7
329 菅生屋鹿吉 歩兵一等卒 8 7
330 尻家仲造 騎兵上等兵 8
331 松本権治郎 騎兵二等卒
332 東野政吉 砲兵一等卒
333 今道常治 輜重輸卒 8
同村大字伏見堂 334 三並丈太郎 歩兵伍長 8 7
335 北岸藤太郎 歩兵一等卒 8 7
336 箕浦寅市 砲兵一等卒 8
337 田中亀二郎 輜重輸卒 8
338 箕浦駒市 輜重輸卒 8
同村大字嬉 339 中谷正之輔 歩兵中尉 6
340 北野為造 輜重輸卒 8
341 北野勘三郎 輜重輸卒 8

注1)『日露戦役南河内郡出征軍人伝記』より市域該当者を抽出して作成した。
 2)旭―旭日章 瑞―瑞宝章 無事帰還 傷病復隊の後帰還 傷病除隊 △内地勤務 戦死 ■戦傷病死 *日清戦争従軍者 +台湾・朝鮮守備従軍者

 本市域の戦死者は、『伝記』『日露戦役忠勇列伝』などによれば、表51のとおりである。旅順盤竜山で戦死した歩兵上等兵喜田藤吉郎は『伝記』には載録されていないが、川西村慰藉会・親戚一同による水郡富三郎・喜市の葬儀の新聞広告には名を連ね、「本月拾壱日午後一時水郡鶴次郎宅出棺、仏式ヲ以テ原田山墓地ヘ埋葬致候」と記されており(『大阪朝日新聞』明治37・12・7)、水郡の一族と思われる。戦死者の町村葬は、町村長が会長を兼ねる慰藉会が主催し、寺院・自宅・墓地などで行われたようである。費用は、彼方村の寺田仙二郎・北岸藤太郎合同葬の例では、総額五〇円三二銭五厘で、そのうち僧侶の布施一三円四〇銭が最も多い。小学生徒が参列して葬式唱歌が歌われたらしく、指導した教員のたびたびの出張旅費一円六六銭が支出されており、参列した小学生徒一七〇人に一人三銭の心付けが配られている(彼方土井家文書)。また、南河内郡在郷軍人会の会長でもある郡長が弔辞を読んだようで、東条村段福松の遺族・親族は、郡長深瀬和直に礼状を送り、「不肖福松義、今回国難ニ殉シタルノ故ヲ以テ、微功ダモ奏セザルニモ不抱、同胞ノ誠衷(せいちゆう)ヲ以テ公葬ノ式ヲ営マルニ際シ、懇篤ナル吊詞及送葬ノ栄ヲ忝ス」(八尾市立歴史民俗資料館所蔵旧深瀬家文書)と述べている。戦死者の遺族には一時金と遺族年金が支給され、金鵄(きんし)勲章を授けられることが多く、将校である水郡富三郎を除けばすべて功七級で、年金一〇〇円が下賜された。

表51 日露戦争の戦死者
町村 大字 氏名 兵種階級 功級 死因 戦場 死去年月日 町村葬年月日 一時金 遺族扶助年金 補助金
富田林 富田林 平尾富三郎 歩兵上等兵 7 戦死 遼陽 37.9.2 37.11.5 520 55
富田林 祢酒音五郎 歩兵上等兵 7 戦死 旅順 37.8 38.4.22 520 50
富田林 瀧谷房吉 歩兵一等卒 7 戦死 南山 37.5.26 37.7.6 470
毛人谷 用木富三郎 輜重兵軍曹 戦病死 鉄嶺 38.9.11 38.10.10 350 54
新堂 新堂 折本留治郎 歩兵曹長 7 戦傷死 沙河 38.1.22 38.3 690 80 80
新堂 大谷由三郎 歩兵一等卒 7 戦死 南山 37.5.26 37.7 470
喜志 喜志 楠本亀太郎 歩兵一等卒 戦病死 奉天 38.11.15 34
喜志 田中亀之助 砲兵一等卒 戦死 大石橋 37.7.23
大伴 山中田 阪本庄太郎 歩兵一等卒 7 戦死 南山 37.5.28 470
東条 佐備 南向藤太郎 歩兵一等卒 戦死 南山 37.5.26 37.8.11 470 50
龍泉 段福松 歩兵一等卒 戦病死 遼陽 37.9.24 37.12.3 240 34
龍泉 東条岩太郎 砲兵一等卒 戦傷死 大石橋 39.9.30 50
川西 甲田 水郡富三郎 歩兵少佐 5 戦死 沙河 37.10.12 37.12.11
甲田 水郡喜市 砲兵伍長 7 戦死 沙河 37.10.14 37.12.11
甲田 錦辰三郎 砲兵上等兵 7 戦死 旅順 37.11 38.1.16 520 55 80
甲田 喜田藤吉郎 歩兵上等兵 戦死 旅順 37.8.22
廿山 尾崎幸三郎 歩兵一等卒 7 戦死 沙河 37.10.15 37.12.15 470 50
加太 小田楠太郎 輜重輸卒 戦病死 80
新家 内田啓二郎 歩兵軍曹 7 戦死 南山 37.5.26 37.9 690 80
錦郡 錦郡 梅川宇三郎 輜重輸卒 戦病死 38.10.6
伏山 田中忠治郎 歩兵上等兵 7 戦病死 大石橋 37.9.24
彼方 板持 川角槌松 歩兵一等卒 7 戦死 遼陽 37.12.20
板持 岡田寅太郎 歩兵一等卒 戦死 遼陽 37.9.2 37.12.20
彼方 寺田仙二郎 歩兵一等卒 7 戦死 南山 37.5.26 37.8.10
彼方 東野政吉 砲兵一等卒 戦病死 遼陽 37.12.5
伏見堂 北岸藤太郎 歩兵一等卒 7 戦死 南山 37.5.26 37.8.10

注1)空欄は、史料の記載が欠如している。
 2)『日露戦役南河内郡出征軍人伝記』、『日露戦役忠勇列伝』、彼方土井家文書、八尾市立歴史民俗資料館所蔵旧深瀬家文書より作成。

 黄海海戦・遼陽会戦・旅順陥落などの勝利が報道されると戦勝祝賀会が開かれ、河南鉄道など多くの鉄道が寺社への祝勝参拝の便をはかって運賃を半額にしている(『大阪朝日新聞』)。講和が成立すると、大阪市を除く八聯隊管区の市郡は、凱旋軍隊の歓迎法について申合せをしたようである(八尾市立歴史民俗資料館所蔵旧深瀬家文書「各郡市町村ニ於ケル凱旋軍隊ノ歓迎ニ関スル協議案」)。それによれば、第四師団司令部・旅団司令部や大隊以上の軍隊の帰還に際しては、各郡市長・町村有志者が大阪駅または所定の場所まで出迎え、市郡の出征軍人の帰還には郡市長・町村有志が市郡界または停車場まで出迎えることになっていた。各町村では、授業に差し支えない限り小学生徒が出迎え、氏神社頭で凱旋式を行い、歓迎会は質素篤実な方法で開催することとして、郷党間の酒食の饗応、金品の贈答は廃止することを申し合わせている。また、招魂祭や記念碑建設などについても検討されたようである。三九年二月、喜志村在郷軍人は、美具久留御魂(みぐくるみたま)神社に「明治三十七八年戦役記念樹」を植え記念碑を建てている。瀧谷山明王寺は、三九年三月、裏山に忠魂碑を鋳造し、八聯隊から一個小隊を招聘して法要を行った。忠魂碑の近くには、彼方村大字彼方の寺田仙二郎と東野政吉の石碑も残されている(荒谷實善『瀧谷山史考』)。

写真54 忠魂碑落慶法要の様子(明治39年、瀧谷不動明王寺所蔵)