勝山孝三(かつやまこうぞう)は、万延元年(一八六〇)四月二四日、石川郡南大伴村の勝山治平の三男として生まれた。幼名を孝三郎といい、明治二四年(一八九一)一二月に孝三と改名した。父治平は、明治初年に年寄・百姓総代・小学周旋方を勤めているが、元治二年(慶応元、一八六五)正月、五九歳で家督を長男弥三八(二五歳)に譲っていた。孝三は、いつのころからか長兄弥三八の養子になり、明治一三年八月に家督を相続している。孝三は二一歳に達していたものの、北海道で暮らしており、隠居していた治平が、家政を担っていたものと思われる。二四年一〇月六日、養家を離縁し実家に復籍するが、父は他界して次兄彦治が嗣いでおり、同月一九日に、分家して村内に戸籍を定めた。もっとも、この間、孝三は依然として北海道に居住していたようである。翌二五年一月一五日、廃家して北大伴の勝山彦三良の養子となった。彦三良は、文政一二年(一八二九)生まれで、当時六四歳、明治二二年三月に家督を養子太市に譲って隠居していたのを、二五年一月九日に分家し、一五日に孝三を養子に迎えて相続させたのである。このような孝三の慌ただしい戸籍の異動は、二五年の第二回総選挙に出馬するためであったと思われる。二六年五月三日には、孝三は戸主を退隠し、彦三良が戸主に復帰している。
勝山は、東京の専門学校に学んだものの、学業半ばにして北海道に渡った。二四年二月に刊行した『北海道殖民策 日本開富』(国立国会図書館所蔵)の序文は、「明治十一年十一月三日ノコトニテアリキ、予ハ東京ニ留学中大ヒニ悟ル所ロアリ、遂ニ愛敬スル教士ト学友ヲ捨テヽ横浜ヨリ汽船ニ投シ函館ニ航シタリ」と述べ、三五年三月二〇日に釧路で創刊した雑誌『新蝦夷ッ子』の趣意書というべき、巻頭の「宣言書」では、「不肖楠洲(勝山の号)回顧スレバ明治十二年本道ニ渡航シ来リ、爾来(じらい)北海ノ天地ニ恋々シ去ル能ハス」(新堂平井家文書)と述べており、その時期が明治一一年であったか一二年であったかは判然としない。北海道では教員として生計を立てていたようで、一三年一二月二三日、開拓使函館支庁下渡島(しもおしま)国茅部(かやべ)郡小安村(現北海道亀田郡戸井町)の汐首学校(現町立汐首小学校)の初代校長に就任し、翌一四年五月に柏樹学校(現北海道桧山郡江差町立江差小学校)に転任している。しかし、勝山の志望は実業界で活躍することであり、一四年六月、北海道と大阪の貿易を目論み、資金調達のため帰郷する。折しも北海道開拓使官有物払い下げ事件が起こり、それを契機に民権運動が高まりを見せており、勝山は、北海道の知見を買われて民権運動に参加することになる。その間の経緯を『日本開富』の序文は、次のように述べている。
遂ニ北海重要産物ノ取調ニ着手シ、之ヲ以テ起業ノ材料トナサントシ、為メニ全道ヲ漫遊シ、殊ニ旧函館県下・旧札幌県下ノ海辺ニ身ヲ寄セ、専(もつぱら)社交ヲ勉メタリ、後事態凡(およ)ソ観察スル所ロアルニ及ビ、予ハ故郷浪華ニ帰リ北海道ト大坂トノ間ニ貿易ヲ開キ、以テ独立ノ世計ヲ立テント欲シ、明治十四年六月北海ヲ去ツテ先ツ東京ニ着シ(中略)、カクテ同月末ニ至リテ大坂ニ帰着シ、先ツ阪商ニ説ク処アリ、且余日ヲ以テ襁褓(きようほう)ノ地河内ニ帰リ、父母親族ニ面会シテ北海道貿易ノ有利ナルヲ説キ、一族親友中ノ資財ト産物トヲ集メテ将(ま)サニ北海道寿都(すつつ)港ニ向ヒ出発セントセリ(中略)、一友偶(たまた)マ予ニ告クルニ近村富田林村并長野村ニ演説会及ヒ懇親会アルヲ以テシ且同行ヲ勧ム、余之レヲ聞キ直チニ同行ス、会場ニ至レハ天下ノ名士(中略)十数名各々慷慨悲憤(こうがいひふん)熱血ヲ吐キ雄弁ヲ振ツテ公衆ニ国事ヲ談ズ、弁士皆ナ曰ク北海道ヲ三十万円ニ三十ヶ年賦ヲ以テ関西貿易会社ニ売却スルハ不当ナリト(中略)、遂ニ意ヲ決シテ衆中ニ突出シ余ガ北海道ノ経歴ヨリ実地調査ノ概要ヲ論シタリキ、於是乎(ここにおいてか)衆大ヒニ感奮ス、蓋(けだ)シ関西地方ニ於テ北海ノ実態ヲ知ルモノナク、数十ノ弁士又北海ヲ踏ミ北海ノ実象(像)ヲ見聞シタル者ナケレハナリ、茲(ここ)ニ於テカ諸名士刺ヲ予ニ通シ交ヲ求ム、余ハ其ノ厚キニ感シテ深ク敬交ス、即チ是十四年七月末ノ事ニテアリキ、爾来政海ニ浮沈シ立憲政党ノ事及ヒ立憲政党新聞創立ノ事ニ与カリ、或ハ各地ノ懇親会演説会等ニ招カレテ出席セリ
開拓使官有物払い下げ事件が『東京横浜毎日新聞』の社説に取り上げられたのは七月二六日で、世論の批判が高まるのは八月に入ってからである。したがって、勝山が、富田林村・長野村の演説会・懇親会に出席したというのは早すぎるようである。古野村(現河内長野市)極楽寺で錦部郡自由大懇親会が開かれたのが九月四日で、それ以前に近隣で政談演説会・自由懇親会が開かれたという記録は見つかっていない。しかし、一八日に富田林御坊で開かれた石川・錦部両郡自由懇親会では、会主総代として開会の趣旨を説明し、会則の朗読を行っている。会則は残されていないが、懇親会の会則は珍しく、勝山が起草した可能性がある。勝山は、『日本開富』の序文で「立憲政党ノ事及ヒ立憲政党新聞創立ノ事ニ与カリ、或ハ各地ノ懇親会・演説会等ニ招カレテ出席セリ」と述べている。一五年の「立憲政党名簿」に勝山の名は見えないが、一五年一〇月七日・八日の政党演説会では主催者の一人として活躍しており、彼等は立憲政党員と目される人物であった(第一章第四節参照)。